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「やめること、失うことは悪ではない。」 らしい。~ noteのつづけ方

日々過ごしながら、心の底でわりと沈殿している感覚。

「やっと始めたnote、結局続かないのか?」

誰が見てんのよ、という自己ツッコミもあるのだけど、他ならぬジブンが見ている。
たまに、「たくさんのひとがnoteを始めて、たくさんのひとがやがて書くことをやめていく」なんて、毎日更新されている方が書いた文章を見ると、自分のことを言われているみたいで、胸がつまる。
それ、わたし? やめていく=あきらめる? 諦めたひと?
それは一番胸が重い言葉だ。

という、いかにも暗い内容はこのくらいにして、本題に入りたいと思う。

タイトルの「やめること、失うことは悪ではない。」という言葉はオリジナルではなく、イケダハヤトさん(以下、イケハヤさん)のVoicyのタイトルからお借りした。

わりとありがちな「自己肯定感」の話かな、と思ったのだけど、イケハヤさんはそんなありがちな話はしない。聞いてみたら、"未来" の力を信じるイケハヤさんらしい考え、かつ、実にシンプルで、「あ、そうか」と身構えていた気持ちが軽くなった。

「やめることや失うことを "悪” だと捉えがちな人がいるけど、そんなことなくて、プラスになることも多いんだよ。ひとや社会は柔軟で、何かの都合や事情でそれをやめたり失ったりすることがあっても、レジリエンス(回復力・復元力)がはたらくから、結果、大丈夫なんだよ。」という話でした。
※話のなかで「以前チェーンソーで指を切り落としそうになった時、"指一本ふっとんでもいいな"と思った」というくだりがこの人らしくてすごく面白かったです。

なるほど。

「noteのつづけ方」に当てはめるには、やや強引かもしれないけど、「自分のこころと裏腹に、noteに記事を書いていく行為が遠くなってきた」という感覚は、比較的多くの人が経験しているのではないかと思う。わたしの心に沈殿しているのが、まさにその感覚だ。

たとえば、好きな小説家やミュージシャンがいて、自分でも理由がはっきりしないまま遠のいていくことが、わりとあった。
そして、なにかの拍子に再びその人の作品を手にとり、結果、前よりもより深く、愛情をこめて接することができた、ということがあった。

はっきりしないまま遠のいていく、と書いたが、実はわりとわかっている。自分とその人の作品に "ズレ" ができてきたからだ。そのズレは自分の内面に起因する場合もあるが、状況の変化など外的要因も少なくない。そして、縁遠くなった友人のように、いつしか音信がなくなる。
その後それなりの時間を経たあと、またその作品に触れようと思うのは、時が経ち自分がまた変わったからだ。元に戻ったわけではない。時計の長針が前と同じ12を指していても、短針は2から3に移っている。自分は変わり、作品はそのままそこにずっといてくれる。故郷のなつかしい空気のように。よく眺めていた青い海のように。

となると、このnoteだって、「つづける」というよりは、「離れても、また呼び戻される」ものなのかもしれない。

楽しいじゃないですか、なんども「やめた ←→ 戻ってきた」なんて。

現実生活では、たとえば仕事や人間関係でそんなことしてたら「コイツ信用できねぇ!」って思われる。
仕事で「そんなのワタシできません!」とか言ったあと、「やっぱり、それやりたいでーす」なんて言ってたら、「おい…ちょっと…」となる。
友人関係でも「ゴメン、もうあなたとはつきあえないよ」と宣言したのに、その舌の根も乾かぬうちに「今度の土曜、飲みにいかない?」なんて誘ってたら、1~2回は許してくれるかもしれないけど、3回目には先方から三行半だろう。

話が逸れてきて、自分の脆弱さが浮き彫りになりつつあるが、つまり、noteに関しては「つづけかた」より「復活のしかた」がキモなんだろう。
それは書く側としての話だけではなく、読む側としても、書いてくださる方に対し、そうあってほしいと思う。ある日、思い出したようにひらめいて書かれた文章は、いい意味で重量感がなく、すうっと心のなかに染み込んでいく。

「つづけよう」というポジティブな裏付けより、ときには「やめてしまってもいいんだな」という、見方によっては後ろ向きな、手放しな心持ちも、noteというプラットフォームは大きく包み込んでくれるんだろう。

ただいま。
おかえり。
note って、そういうところかもしれない。


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