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哲学の道を志してしまった元凶

デカルト「われ思う、ゆえにワケアリ」

どこかで書いたかどうかわからないが、ぼくは大学時代文学部の哲学専修を卒業している。
少子化が叫ばれる昨今、大学の数自体が減っていく中、学生たちに人気のある学部は実用的で華やかな学問を学べるところが多い。
そんな風潮と真っ向から対立するのが哲学科である。

哲学は最古の学問である。
そもそも学問は哲学から始まった。
そのうち実用的な内容は哲学から分化され新たなカテゴリとして専門化されていく。
哲学をもとにした学問は現在では数多くあるしそのどれもが当然実用的だ。

つまり哲学とは「専門化するまでもない」「実用的でない」「古臭い」「残り物」の学問なのだ。書いてて泣きそうになってきた。

「哲学をやってます」という人にどんな印象を持ちますか?
一瞬「かっこいい」と思うかもしれません。
それは、「趣味で哲学の本を読んでます」くらいならかっこいいと思います。でも「哲学に青春を捧げました。哲学に魂を込めてます」って人はどうですか?
ぼくはノーコメント。自分は学部卒なので哲学研究の道にまでは進みませんでしたからあまり自虐をすることもよろしくはないでしょう。

そもそも先ほども書いたが学問への実用性が叫ばれる現代において哲学を専門的に学べる大学自体がそもそもレアだったりします。
一般教養レベルで哲学の授業が受けられる大学は相応にあるでしょうけれど。

で、さっきから役に立たない根暗な学問だとディスっている哲学をなぜ大学でぼくは専攻してしまったかというと2つあります。

元凶① 多湖輝氏

頭の体操シリーズの著者、多湖輝氏は東京大学文学部哲学科心理学専攻を卒業している。その後、千葉大学でも哲学科心理学の教授として教鞭を振るわれた。
哲学の人というよりかは心理学の人、あるいは教育の人といった方が正しいのだろうが、子どものころに哲学という学問が存在することを植え付けたのはこの人だったような気がする。

この人は元凶などと言うのもおこがましいくらいぼくの人生の指針になった人で、『頭の体操』シリーズは今でもほとんど全部の問題を即答できるくらいには読み込んだ。
『頭の体操』で繰り返されていることは「常識を疑うこと」である。
これはまさしく哲学における「懐疑主義」の考え方と重なるのである。

元凶② 土屋賢二氏

お茶の水女子大学で哲学教授として活躍されていた土屋氏。エッセイストとしても活躍していて、哲学×笑いの爆笑(失笑)エッセイを多数執筆されている土屋氏。
彼のエッセイを始めて読んだのは中学生のころでした。
まだ純真でピュアっピュアだったぼくは「あっ、哲学ってこんなにふざけてもいい学問なんだ」と盛大に勘違いしてしまいました。(勘違いというわけでもないような気もしています)
それでぼくは「大学で学ぶなら心理学か哲学かな」なんてぼんやり思ってしまったのです。

週刊文春のエッセイをまとめたものも面白いですが、初期の文章量に統一感が無いころのエッセイも味わいがあって好きです。


ぼくの人生がいまいちどんよりとしているのは哲学を学んだからだとずっと思っています。
その元凶は上記のお二方です。
という八つ当たりです。

哲学なんてなんの役に立つんだよ、多くの人はそう言う。
高校での古典や漢文の不要論が叫ばれる中ひっそりと縮小していく哲学科。
ぼくは哲学科であったことを誇りに思わないし、卑屈にも思わない。
ただ、物事を考えるということに関しては哲学より進んだ学問はないと思っています。

まあ哲学科はなくなってもいいと思ってっけど。

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