見出し画像

手術を受けました日記 SRS-1(造膣なし)


近年手術をしました

何をしましたか?

性別適合手術を受けました。

それはどんなものですか?

概説的には、自分が生まれた時の性別は誤っていると感じている人が、自分の本来の性別に合うように性器の形状を変更する手術のことです。

法的には、戸籍の性別を変更し、愛する人と婚姻するために(※異性愛者の場合)、嫌でも受けなければならない手術のことです。

技術的には、陰嚢と精巣を切除し、陰茎を切り開き、内部の海綿体を取り除いて皮と神経だけにした後、その皮膚で大・小陰唇を形成し、亀頭の一部を移植して陰核にし、尿道の位置と向きを修正して女性器の外観を得る手術のことです。

この記事は何ですか?

私は、造膣なしの性別適合手術(性器の女性化手術)を受けました。
一般的には、膣の獲得を望む人が多いため、これは比較的珍しい事例です。知らんけど

インターネットでは、あまり造膣なしの体験記の投稿を見かけることがありません。
そのため、手術の様子、特に術後の様子について記録に残そうと考えました。


本題

until T-2 あるいは手術までの経緯

めんどくさいのでここからは常体で書く。

正直に言って手術はしたくなかった。

私の場合、20歳の時に女性ホルモンの投与を始めてから既に8年が経過していた。
そのため、とっくに生殖機能もなければ男性器本体も委縮しており、普段生活する上でその存在を気にすることはあまりなかった。

それに加えて、「自分の体が嫌いすぎるゆえに、手術したところで大して変わることはない」と思っていたことが大きかった。

こうして口にすると本当に嫌なのだけれども、私の体は男性として生まれたのであって、細胞の一つ一つに至るまでXYの性染色体が刻み込まれている。

その穢らわしさは生涯変わることはないし、たとえば性別適合手術を受けることによって肉体への嫌悪度が100緩和されるとしても、もともとの嫌悪感が1億ぐらいあるので9999万9900になったところで何なのかという話であったのだ。

唯一それを揺るがし得る要因があるとすれば、それはパートナーの存在であった。
普段Twitterで親交のある人ならご存じだろうが、私(異性愛者である)には、男性のパートナー(これも異性愛者である)が存在する。
彼が望むのならば流石にちょっと考慮する。
そして最終的には手術を決意した。

一番の理由は結婚がしたいと言われたことだった。
同棲を始め、事実婚状態になってから久しかったが、法的に他人なのはどうしようもなかった。
現在の日本では戸籍が同性同士だと婚姻は結べないし、戸籍の性別を変更するには性別適合手術を受けていなければならない(他にもいくつもの条件がある)。
プライベートなことなので詳細は伏せるが、とても情緒に訴えかけることを言われたので、そんなん言うんやったら結婚せなしゃあないやろ……になった。

その代わり、どうしても譲れない条件を私は提示した。
造膣をしないことである。

男性から女性への性別適合手術は、男性器の切除と女性器の形成だけでなく、膣の形成を伴う。
子宮は拒絶反応が激しく移植できないので、妊娠する能力はないが、性交ができる(蛇足だが、世界で初めて性別適合手術を受けた女性、リリー・エルベは子宮移植の拒絶反応で死んだ)。
ところが、この造膣というのが物凄く厄介で、端的に言うと尋常ではないぐらい痛いし値段も高い。

もともと何もなかったところにデカい穴を開けて膣壁(だいたい腸で代用する)を貼り付け、「わ~傷口だ治さなきゃ」と勘違いする肉体を強制的に穴をこじ開けて拡張することで説得する。

それは、手術直後のパンパンに腫れ上がり、血まみれになった患部へ、拡張用のシリコン棒を押し込みグリグリ広げることで行われるのだ。

生来怖がりで痛みに弱い私には、想像するだけで耐えられない所業であったので、造膣だけは絶対にしないことを要求した。

この条件は承諾され、私の手術は決定した。

T-1 手術前日

2024年1月16日、私は人生で初めて海外へ渡航した。
性別適合手術はタイで受けることが多い。
なぜなら、日本では以下のようなデメリットが存在するからだ。

・技術がタイに比べて低い。
・料金が高額である。保険はほとんどの場合適用されない。
・受け入れ病院に入院設備がないことがあり、その場合は手術直後に地面を這うしかない状態で放り出される。

そういう訳で、タイに渡航して手術を受けることとした。
タイは英語圏ではないのでタイ語が使えないと話にならないが、そういった素養は持ち合わせていないので、手術を受ける人向けのアテンドサービスを利用した。
手術の予約や病院とのやり取り、準備の助言、航空券その他の手配、現地での通訳や生活サポートを引き受けてくれる頼もしいサービスである。

参考までに、利用したアテンド会社は Sophia Bangkok、手術をした病院はガモン病院だった(ダイレクトマーケティング)。

日本時間の17時ごろ、関西国際空港を離陸。
その少し後にタイ風チキンライスの夜ご飯を食べて、タイ時間の22時すぎにスワンナプーム国際空港へ着陸した。
時差は2時間なので、6時間ぐらいかかったことになる。

空港に着くと、ガモン病院のスタッフが送迎のために待機してくれている。
指定の待ち合わせ場所で合流した後、でかいバンで病院まで向かった。
所要時間は30分程度。夜中だったからスイスイと進んだが、渋滞していたらもっとかかるだろう。

23時すぎ、ガモン病院の駐車場に到着。
入院の手続きをし、6階にある病室へ通された。
室内はかなり広くて清潔、非常に快適な空間だった。

ところがこの部屋、要所要所に掃除で落ち切らなかった血痕が残っており……

病室には金庫、机、冷蔵庫、テレビが置いてあり、その他にトイレとシャワールームがある。

私はしばらく気付かなかったが、タイではトイレに紙を流してはいけない。備え付けのサニタリーボックスに捨てるように。

少しくつろいでいると看護師が現れ、翌日の予定を伝え始めた。
この段階ではまだアテンド会社の担当者は現場におらず、互いに Google翻訳を使いながらの会話となった。

曰く、翌日の朝食は6時。8時から絶食、水を飲んでもいけない。
手術は16時からの予定とのことだった。
そして本日2回目の夜ご飯である豚骨ラーメンが渡され、看護師はナースステーションへと帰っていった。

やよい軒

翌日に備えてゆっくり眠るようにと言われたが、一世一代の手術を目前にして気が休まることなどない。
部屋の電気を消して横になってみたが、結局一睡もすることなく翌朝を迎えた。

T-0 手術当日

朝6時、朝食が運ばれてきた。シリアルとチョコフレーク、クロワッサン、リンゴ、牛乳、マンゴージュースと結構なボリュームである。
絶食になる8時までに日本から持ち込んだじゃがりこを食べてやろうと思っていたが、そわそわしながらTwitterをしていたら結局忘れていた。

10時ごろ、アテンド会社の担当者である日本系タイ人(たぶん)のナオコさんが病室を訪れた。一応仮名。
ここからは通訳という信頼できる武器を手に入れ、同時に怒濤の準備が始まることとなる。

まず、新型コロナウイルスのPCR検査のために採血。
結果を待つ間に手術のための事前検査を次々と受けた。
レントゲン、心電図、身長体重、などなど。
一番最後に、事前に国際送金していた手術費との差額精算(レート変動による)を行い、一旦は一段落。

しばらくすると、今度は書類の確認が行われた。日本で発行された性同一性障害の診断書を提出し、手術を受ける正当な理由があることを示す。

通常、数か月から数年の診察、多種多様な検査、複数名の医師による判定会議などを経て、実際に望みの性別で生活して社会経験を積んでいるかなど無数の事項を勘案してようやく診断が下りる。めちゃくちゃめんどくさい。

また、ありとあらゆる書面にサインした。
手術の同意書、全身麻酔の同意書、なんかのリスクの同意書、他。
最初は丁寧に漢字で平沼彩華と署名していたが、だんだんめんどくさくなって草書体でAyakaとだけ書いた。

やや煩雑な手続きを終え、ガモン医師の診察を受ける。
そう、ガモン病院のガモンは人名である。

ガモン・パンシートゥム医学博士 いい笑顔

診察台に上がり、局部開示を行う。
チンポを見せろ安倍晋三」とは一世を風靡した一大ムーヴメントだったが、実際にチンポを見せた人はそう多くはないだろう。

緊張していることもあったが、それ以前に、その場にいる全員が医学的なことしか考えていないので全然恥ずかしくない。
正常に手術を行える状態かどうか確かめているのだ。
女性器を作ろうにも、材料(陰茎とか)が足りなければどうにもならんのである。

特に何事もなく診察は終わり、手術へのゴーサインが出た。
今度は病室に戻り、肉体的な準備を始める番である。

看護師が次々に現れて点滴とパルスオキシメーターを装着、血圧を測り、陰部の剃毛を行う。
なんらかのホースが肛門から挿入されて腸内洗浄も行った。術後はしばらく歩くことができないので、数日分の便を洗い流しておくのである。

それが終わったらシャワーを浴びて準備は終了だ。
このシャワーは向こう3,4日間ぐらいの中で最後のシャワーとなるので、ゆっくり浴びておくといい。

この時点で時刻は14時ぐらい。
手術開始の時刻になるまで病室で待機となる。
どうせならこの間にベッド周りへと必要な荷物をかき集めておこう。

アテンド会社が貸してくれたポケットWi-Fi、常備薬、何本かの水ボトル、体を拭くウェットタオル、本と各種リモコンなどがおすすめである。
何日もの間、両腕の届く範囲だけがあなたのテリトリーになるのだから。

さて、手術の時刻が近づくと、やがて迎えが来るので、ベッドごと運ばれていくことになる。
アテンドさんは手術室前の廊下までついてきてくれる。笑顔で手を振ってお別れしよう。

明るくて清潔な手術室に入ると、ベッドから手術台に移るよう促される。
そして少しだけ待っていると、どこからともなく麻酔医が現れて、吸入用のマスクを手渡してくれた。
エーテルだか笑気だかよく分からない何かを吸って、点滴のチューブから謎の液体が注射される。

後は簡単だ。
自然と「寝たいなぁ」という気持ちになるので、居眠りでもしておけば勝手に手術が始まる。
肌感覚としてはそんな感じである。

T+1 術後1日目

目覚めたのは翌日の真夜中、午前1時30分ごろ。
手術開始から9時間ちょっとが経過した頃合いである。
なんでそんなん分かるのかというと、Twitterに「ぽきた」と投稿されていたため。
携帯持ってってたんすね。

手術直後は、リカバリールーム、回復室と呼ばれる静かな部屋に移されている。
そこには色々な設備と看護師がおり、文字通り満身創痍となった体を休める手伝いをしてくれるのだ。

ぼんやりとしてあまり正常に働かない頭を巡らせ、状況を確認した。
部屋は薄暗く、カーテンで仕切られている。
手術台ではなくベッドに寝ているようだ。
自分の他にも何人か寝ているように思える。
股間にはオムツのように膨れ上がったガーゼの山。大量の血が付着して見える。
腫れ止めなのか、アイスノンの親玉みたいなやつが傷口の近くに置かれていた。

とにかく痛い。
しかし、我慢できないほどではない、恐れていたほどではない。
と、目覚めた当時は感じたのを覚えている。
だが痛み止めを要求したこともまた覚えているので、たぶん結局我慢できないほど痛かったのだろう。

モルヒネかなんかが投与され、意識は再び泥の中に落とされるように沈み、不快な眠りにつく。
何度か痛みで目覚めてはペインキラーを要求するということを繰り返したように思う。

朝の5時ぐらいになると、回復室を出て自分の病室に移された。
回復室にあったベッドがそのまま病室のベッドになる仕組みのようで、痛みを我慢してベッドを乗り移るというような恐ろしいイベントは発生しなかった。
ありがたい。

6時過ぎになると朝食が運ばれてくる。
謎の緑のスープである。
術後すぐにウンチを出してしまわないように、こういうものを食べる。
まあ、仮に固形食が出ていても食べる元気はなかったろう。

なんだか常に頭がぼんやりしているし、妙に疲れきったような感じで、うつろな目のまま天井を眺めているしかやることがなかった。

ちなみに、尿道にはカテーテルが挿入されているのでおしっこの心配は不要である。
尿意を感じることすらなく自動的に体外へ排出されていくのはちょっとだけ面白かった。

この日以降だいたい10時ぐらいにはナオコさんが現れ、お見舞いをしてくれた。
病院からの伝達事項があればお知らせもしてくれるし、必要なものがあれば買ってきてくれる。
動けない身としては本当にありがたく、何かと頼ることになる。

昼食はワカメのスープ、夕食はコーンスープだったが、食事時以外の記憶がまるでないぐらいマジで暇&脳が働かなかった。
Twitterを確認すると結構色んなことを呟いていたのが意外なほどである。
おなら大量に出る」とか呟いていた。

毎食後に痛み止めと腫れ止め、抗生剤が出されるが、それでも追いつかないため、それとは別に痛み止めを要求しまくった。
ナースコールを押すと看護師が現れて、「ペインキラー、プリーズ」と伝えることで何らかの液体を注入してくれるのである。

頻出単語であれば、簡単な英語や日本語も理解してくれるため、「ペイン」「痛い」は積極的に使っていくといいだろう。

なお困ったことに、このナースコールはちょっとコードが短いのか、やたら床に落下しまくったため、枕の下とかに挟んで固定しておくことを推奨する。
ちょっとぐらい手を伸ばして……とかマジでできない痛さなので。

T+2 術後2日目

この日から固形食が供された。
スマホの画面から注文可能なメニューを選ばせてもらって、自分が指定したものが運ばれてくる仕組みである。

折角タイに来てまで和食や中華を注文したくはなかったので、タイの食べ物を選んだ。
その中にはブリトーみたいな筒状の生地に包まれたものがあって、体を一切起こさなくても食べられるので重宝した。
でもあれ洋食だった気がする。

また、ペットボトルから寝たまま水を飲む練習はしておいた方がいいだろう。
病院の方で配られるオリジナルラベルの水(通称ガモン水)があって、500mlのペットボトルで毎日3~4本もらえるのだが、ストローとか短すぎて役に立たないので日本にいる時から備えておくべきである。

ちなみにガモン水は結構まずい

朝のうちに看護師が数名現れ、「マウスウォッシュ」と言ってモンダミンみたいなやつを渡してくれた。
また、「カラダフク」と言って清拭もしてくれた。
背中をちょっと浮かせて拭いてもらうのが痛かったので正直やめてくれと思ったのは内緒である。

清拭と同時に「オシリアゲテ!」と言われ、臀部に敷かれた防水シートも交換してもらう。
血とかそういうやつがめっちゃ出て真っ赤になっているので、定期的に換えてもらうのである。

それから、患部の消毒も行われる。
朝と夕方、1日に2回、「ショウドク~」と言って看護師がやってくる。
患部を覆う血だらけのガーゼを取り除き、ハンドボール入ってんのか? というぐらいパンッパンに腫れ上がった患部を綺麗に拭き上げ、抗生物質を塗ってくれるのである。

想像してほしい。
恥骨と皮膚の間にハンドボールが埋め込まれたぐらい腫れ上がっているマンコとクリトリスを。そこを丁寧に拭くのである!!
これが冗談じゃなくガチでキレそうなぐらい痛かったので何回か泣いた。

それを示すかのように、この日のTwitter投稿は「痛い」のみ。
よっぽど元気がなかったと見える。

事実、手術直後よりもその後の数日の方がしんどかった。
頭は徐々に正常な働きを取り戻していくのに、体の方は全然正常じゃないから、ギャップで何もかもがやられてしまう。

ガモン医師が診察にやってきて、自身が手掛けられた女陰を観察し、「グッド!」と仰せになって帰っていかれたが、何がグッドなのかさっぱり分からなかった。

ナオコさんによると、出血も少ない、色もいいし形も大丈夫とのことであったが、痛すぎて何もよくない。

夜にはDiscordの身内サーバに顔を出してみんなの会話を聞いていたような気がする。
とにかく痛み以外の情報が欲しかった。
自分から喋るほどの元気はないのでミュートで参加し、やがて疲れて寝たはずだ。
何一ついつも通りではない中で、その空間だけは恋しい日常と同じだった。

T+3 術後3日目

「マウスウォッシュ」
「カラダフク」
「オシリアゲテ!」
「ショウドク~」

何でこんな目にあわないといけないんだよ

T+4 術後4日目

この日、歩行の練習が行われた。
正気か?????
まだ患部は腫れ上がっているしドバドバ血が出ているんだぞ。

正常に、性別の通りの体に生まれてさえいれば、大金を払って異国の地で孤独に激痛と戦う必要などなかったのである。
いつまで痛いのが続くんだろう。
いつまで仰向け固定、足はガニ股のまま過ごせばいいんだろう。
いつになったら、やりたいことも何もできずに痛みの中でぼうっと過ごす無限の暇が終わってくれるのか……。

急に何もかもが恐ろしくなって、わんわん泣いた。
朝の4時から8時にかけて断続的に日本の夫へ電話をかけ、ようやく繋がったときに馬鹿みたいに泣いた。
弱音をたくさん吐いて、もう何でもいいから早く日本に帰りたいと泣いているうちに、看護師さんが「ショウドク~」と入ってきて、通話を切った。

消毒の後、ナオコさんがやってきて、看護師さんも交えて歩行の練習が始まった。
もうまずベッドから降りるだけで精一杯である。
踏み台みたいなものを一段かませて少しは乗り降りが楽になるようにしてくれるのだが、だからなんやねんというぐらい痛い。

モリヤステップぐらいガニ股になってヨタヨタと歩くのだが、

モリヤステップ

とにかく馬鹿でかく膨らんだクリトリスがこすれて発狂するぐらい痛く、セックスなんか一生する予定ないんだからクリトリスなんて作らなくてよかったじゃねえか! とガチでキレ散らかしていた(筆者は性嫌悪、つまり性行為その他一切の性的な接触が大嫌いである)。

ちなみにこのときクリトリスだと思い込んでいた巨大腫れ上がり部位であるが、実際にはクリトリスでも何でもなく単純にぷっくり膨れ上がった皮膚だと判明するまであと一週間ぐらいかかる。
どっちにしろ亀頭をタワシでこすられているぐらい痛かった。

歩けるようになったことで、トイレまで自力で移動してウンチすることの許可が出たし、シャワーも浴びてよいと言われたのだが、そんなこと言われても正直殺すぞとしか思えなかったので、ウンチもシャワーもしなかった。

トイレでウンチをしない以上は、万が一もよおしてしまった場合、ベッドの上におまるを設置してもらって脱糞するという、健康で文化的な最低限度の生活からややはみ出した感じの行為をする必要があったのだが、幸いにしてウンチをしたくはならなかった。
よかった。

本当はこの日、歩くと同時に退院もする予定であったのだが、マジで無理と直感した私がしつこく入院の延長を求めて食い下がったため、退院が1日延びることになった。

診察にきたガモン医師は相変わらず「グッド」とのことであった。

T+5 退院当日

この日、午後2時に退院をする運びとなった。
今後は病院の運営するサービスアパートメント(要はホテルである)に移動し、帰国するまでの間そこで起居しながら、毎日2回の消毒通院を行うのである。

また、尿カテーテルの抜去もこの日になされた。
カテーテルを途中で縛り、尿が流れ出ないようにして、水分を大量に補給し尿意を我慢する練習を繰り返す。
5日もの間おしっこ自動垂れ流し装置くんになっていたのだし、何よりも、排尿器官の形状が今までと違うので、思いっきり限界まで我慢してから解放するという練習をしないと、正常に流れていかないのだ。

3回ほど、限界まで我慢してからカテーテルの縛りを解くという練習をし、4回目で実際にトイレまで行って排尿するテストをやった。

おしっこぐらい自在に出るわと信じていたが、驚くべきことにそうそう上手くいかないものである。
患部が腫れているから尿道は半ば塞がっているし、神経系だって聞いたこともない位置に尿道口が移設されているのでどうやっておしっこしたらいいのか分からない。

極限の尿意の中、液体がしたたり落ちる感覚がしたので、これ出てるんじゃないか? おしっこじゃないか? と思ったら、普通に血だった。

ここでうまく排尿できなければ尿カテーテル再挿入の憂き目に遭うこととなり、抜去とは違ってクッソ痛てぇそうである。
悪いけどそんなのごめんなので、どうにかして排尿する必要があった。

看護師さんの「力抜いて、上見て(タイ語)」とのアドバイスを実行し、空也上人みたいな感じの姿勢をしたところ、いきなり液体が下りてくる感覚があった。
「あっ、おしっこ出そうだ!」と思うよりも一瞬早く、ジャバーとすごい勢いで流れ出ていた。

そう、何と言ってもチンコはもうないのである。

https://www.health.ne.jp/library/detail?slug=hcl_3000_w3000915&doorSlug=incontinence

今までなら「おしっこ出るかも」「おしっこ通過中」「おしっこ射出」とはっきり段階別に知覚できたところだが、
なんと「おしっこ出るかも(もう出てる)」なのである!

そんな感覚の違いにビックリしながらも、固唾をのんで見守っていた看護師さんたちが一気にワァッとなったことを覚えている。
おしっこ出てバイブス上がる人たちいる?

まあ数名の看護師が群れをなして一人のおしっこを見守っている状況自体がかなりシュールである

さて、午後の退院に先立ち、ナオコさんが来てくれて、荷物をせっせとスーツケースに詰めなおし、体を支えるので精一杯の私に代わり、全てを運んでくれた。

腫れ上がった超巨大クリトリス(ではない)を庇いながら歩かないと、体の奥底に響く鈍重な激痛が襲ってくるので、何をしていても気が気ではない。

しかし、自力で病室の外に出て、久々にベッドの上とは違う景色を目にした途端、流石に気分が高揚して少し心が晴れた。

ここまで面倒を見てくれた看護師さんたちと記念撮影をし、たくさんお礼を言ってお別れをした。

病院のロビーを出て送迎用のバンに乗り込む。
揺れないでくれと一心に念じながら。
ホテルの名はKガーデンというのだが、車でわずか1分ほどのところにあった。
そこでチェックインを済ませ、翌朝の朝食メニューを選択し、3階にある自分の部屋に入って腰を落ち着ける。

木と建物と空

窓からの眺めは最高で、ずっと病室の定点観測しか経験していなかった自分には、たったこれだけの風景が何よりも美しかった。

ちっとも動きたくない、ずっと寝ていたいという思いと、やっと自由が戻ってきた、歩いて机まで行ったり椅子に座ったりしてみたいという思いが混在するおかしな時期がきた。

窓の横に机を兼ねたカウンターがあり、椅子も設えられていたので、少しだけ座ってみた。
とてもいい気分だった。

ちなみに、ホテルでは朝食は出るがそれ以外はセルフサービスだ。
したがって夜ご飯はナオコさんが屋台で買ってきてくれた。
確か、50バーツぐらいのカオマンガイだったと思う。

めちゃくちゃに美味しかったことは言うまでもない。

T+6 退院後1日目

相変わらず偽クリトリスが激痛を放っている。
普段は別にいいのだが、ちょっと身動きをするだけでとんでもない勢いで自己主張を始めるため、かなりクソ度が高い。

そういう話をナオコさんにしたところ、下着を別のものに変えるとよいと教わった。

私は日本にいた時から、締め付け感やフィット感のある服を好まなかったため、下着も専ら男性用のトランクスを愛用していた。
タイにももちろんこれを持ち込んでいたのである。
術後の患部はゆったりしていた方がいいだろうと思っていたこともある。

しかし、結論から言うとこれは誤りであった。
ナオコさんによると、適度に押さえつけがあるショーツタイプの方が痛みは少ないというのである。
試しに近所の店でLサイズを何着か買ってきてもらい、履いてみると、びっくりすることに彼女の言う通りだった。

履き始めの瞬間だけはズキンという感覚が股間に走るものの、それさえ落ち着けばだいぶ楽になる。
このことに気付けたのは幸いだった。
恐らく適度に密着することで、こすれによる痛さが緩和されたのだと思う。

偽クリトリスの痛みがちょっとマシになったおかげで、かなりQOLが向上した。
まだまだベッドの上でボんやリすごすだけの人生だが、ちょっと身じろぎをしたい時に「痛いのか? やっぱまだ痛いか? どれ、そろりそろり……痛っっったぁ~~~~~い!!!!!」という手続きをいちいち踏む必要がなくなり、精神的な負担が大いに減ったのだ。

まだまだ痛いが、「それでも少しずつ良くなっている」という実感は何にも代えがたい。

T+7 退院後2日目

毎日、1日に2回の消毒通院があるのだが、実はホテルから病院までいちいち移動しているわけではない。
ホテルの2階は全体が共用部となっているのだが、カフェテリアやランドリーの他にダイレーションルームがあるのだ。

本来は、その名の通り、ダイレーション(せっかく作った膣が塞がらないように無理やり傷口に棒を突っ込んで広げるアレ)を行うためのルームなのだが、造膣を行っていない私もそこで他の人と同じように消毒を受ける。

消毒の後にダイレーションをせずそのまま帰るだけの違いだ。

相変わらず新宝島ぐらいの感じでワッチワッチと歩いて自分のブースまで向かう。
すると、私の消毒を担当してくれている看護師のエミちゃん(仮名)が、「この感じだともう少ししたら割れ目が閉じてくるかもね」と言った。

ここら辺で、ちょっと患部の様子を詳しめに書いておこう。

偽クリトリスが諸悪の根源である

この時点で既に腫れの具合は若干引き始めており、ソフトボールからちょっとデカいテニスボールぐらいにまで落ち着いていた。

大陰唇は、皮下で炎症でも起きているのか、触るとわずかな弾力(しこり?)が感じられる膨れ方をしている。
小陰唇は完全に無感覚である。まるで麻痺しているかのように、触れても何も感じない。

ところが困ったのは偽クリトリスである。
いわゆる「割れ目」の上端部にぷっくりと一際大きく腫れ上がった部位があって、こいつを中心として割れ目に沿って広がる縫合部がバチバチに痛い
しかもよりによってそこは一番腫れ上がっている頂上部なのだから、いちいち下着やら何やらに触れて泣くほど痛いのである。

さらに、ここまで大きく全体が腫れているから当然なのだが、「割れ目」が完全に閉じ切らずに開いた状態になっていたのである。
その内側も基本的にはデリケートな部位であるので、あんまり嬉しい状況ではないと言える。

けれども、本日の看護師のエミちゃんの見立てによると、それももう少しの辛抱だということである。
これには大いに勇気づけられた。

まあ、そうやって嬉しい言葉をかけてくれる一方で、「古い血が傷口にこびりついているから取らないと」と言って、消毒液とコットンで容赦なく人工湖をグリグリと拭きまくってくるなどしたのだが……。

そのほかには、術後7日目ということで、一部の抜糸をすることが可能になった。
怖くてずっと目を瞑っていたので、具体的にどの辺の糸を抜いたのかは覚えていないが、体感的には2~3分といったところだと思う。
体外に見えている糸を引っ張り、はさみで切断し、プチプチと引っこ抜く。
「めっちゃ痛い」わけではないが、「全然痛くない」わけでもない微妙な時間だった。
正直言って嫌いだった。

なお、この日、消毒が終わった後にとんでもない事実が発覚した。
トイレにてお小水をスプラッシュマウンテンした後(尿道口の付近が腫れているため毎回とんでもない飛び散り方をする)、スマホを見ながらベッドに戻ろうとした……その時……なんと、手すりに摑まらずに立ち上がることができたのである。

これまでは、脚や脚の付け根に力を込めると痛いので、手すりに全体重をかけるぐらいの気持ちでウオオオと立ち上がっていた。
しかし、いつの間にやらそんな必要はなくなっていたのである。
これには流石に感激してTwitterでビックリしておいた

とはいえ、一事が万事快調とはいかないのが術後の体の難しいところである。
夜ご飯にはパッㇰブンファイデーンという空心菜の炒め物を食べたのだが、半分も食べないうちに患部の痛みが我慢できなくなり、座れなくなってしまった。

結局食事を断念して、残りは捨てることになってしまったのが大変悔やまれる。

T+8 退院後3日目

タイでの療養生活の中で、一番苦しかった時間帯は朝であった。

お昼前から夕方にかけては、だいたい消毒やら日用品の補充やらで忙しくしているから、さほど問題はない。
夜についても、スマホで動画などを見つつ眠くなったら寝る、ただそれだけなので結構である。

朝ばかりはどうしようもない。
タイの空は日本の倍ぐらい眩しく、カーテンを閉めていても7時から8時の間には必ず目が覚めてしまう。
起床してからナオコさんが現れるまでの間は、果てしない孤独感と戦わなければならない時間である。

今日もまた一日が始まってしまった。
今日はどれだけ痛いのだろうか?
今日は何をして時間を潰せばいいのだろう。
たった一人で、見知らぬ土地で、また今日も厖大な時間を痛みに耐えながら過ごす試練が始まってしまった。

そう思うだけでうんざりしてくる。

残念ながらここには嫌なことがいくらでもあるのだ。

起き上がるのが痛い。
お手洗いに行くのが痛い。
寝返りを打つのが痛い。
寝っぱなしの腰が痛い、背中が痛い、首が痛い……。
痛む場所を庇いながら起き上がったり歩いたりするのは、本当に疲弊する。

でも、患部そのものの痛みではなく、その他のことに意識が向き始めたのは回復の兆しでもあった。
患部以外の痛む場所についてや、起きたり歩いたりするのが面倒くさいこと、それらは今まで全然気にしたこともなかった。

要するに、患部それ自体の痛みが減ってきたからこそ、その周囲に存在する嫌なことに思考のリソースを割けるようになってきたのだ。

と、こんな風に「毎日、昨日よりはマシになっているのだから、大丈夫である」と自分に言い聞かせる必要があった。
確かに、常に「今日は昨日よりマシ」だが、だからと言って「今日は調子がいい」ことを意味しない。
常に調子は悪く、常に痛く、常に動きづらいけれども、どうにかして士気を高く保たねばならないのが辛いところだった。

とはいえ、私は造膣をしていないのだから、そのぶん治りも早いしダイレーションの負担もかからない。
これでも、他の人よりは楽であるはずなのだ。

けれども、くさくさして過ごすのはせいぜい数時間だけである。
本当にありがたいことに、ナオコさんがお見舞いに来てくれると、それだけで不思議と元気が出るのだ。
ナオコさんの人柄がよかったのもあろうが、自分一人で頑張っているのではないという安心感が大きかったように思う。

10時か11時くらいに現れ、屋台で買ってきたご飯を渡してくれ、必要な生活物資の受け渡しやちょっとした会話を楽しんでから消毒に向かう。
この僅かな時間で随分と救われたものだ。

私は社交的な性格ではないから、人との会話でこんなに心が軽くなることがあるなんて想像もしていなかった。

さらにこの日は、朝の消毒が終わった後、エミちゃんがとても嬉しい気づかいをしてくれた。
あまりにも私が偽クリトリスを痛がるものだから、下着を履かせる前にちょうどいい大きさのガーゼをふわっと被せてくれたのだ。

これが著効し、偽クリトリスと下着のこすれが大幅に緩和されたことで、ベッドの上で姿勢を変えるぐらいなら苦労なくできるようになった。

あまりにも嬉しくてしばらくクネクネしていたぐらいだ。

そして夕方。
まさか自分の身に起こるとは思ってもいなかった現象が発生する。
幻肢痛……ならぬ幻チン痛がし始めたのである。

もう存在しないチンチンやキンタマが痛い!!!
ギュ~~っと握られてジンジンしている時のような、そんな感覚がする。
勘弁してくれ!

このカスの幻肢痛は時折発生し、ちょくちょく私を悩ませることになる。
なんなら帰国後も時々架空のキンタマが痛い。
なんだよこれ

T+9 退院後4日目

特筆すべき事項なし。
相変わらず痛いが、我慢するしかない。
日がな一日寝転がってTwitterとNetflixを見ている。

日本ではなくタイにいるため、Netflixでジブリ作品が見られることに気付いたのは大きな収穫だった。

心がだいぶ弱っており、展開を知らない初見の映画を見るにはメンタルの耐久力が減りすぎていたので、何回も見た作品を見ることで時間を潰した。

紅の豚、風立ちぬを連続視聴して宮崎駿の気持ち悪いところ(飛行機オタク)をいっぱい吸った。

この日ぐらいから、日本に帰った後のことを見据え、自分で消毒ができるように練習することになった。
最初は看護師さんたちがやり方を丁寧にレクチャーしてくれ、それを真似して自分でもやってみるのである。

私はどうにもビビりで、恐る恐る患部にコットンや綿棒を当てるのだが、しっかり拭けていないようで何回もリテイクされてしまった。

薬液を使った消毒が終わると、ガーゼで濡れているのを拭き取り、傷口に軟膏を塗って完成である。
ミーボという謎に胡麻油の香りがする茶色の膏薬、それからタイ語で読めない白い抗生物質を混ぜ合わせ、丁寧に塗るのだ。

これも練習ということで、自分の手で患部に塗り広げてみた。
そしてようやく私は、偽クリトリスが「偽」であり、実は割れ目の内部に本物の「真クリトリス」が潜んでいることを知ったのである。

いや……おまえ……あんなにデカくてデリケートで痛くて、自分クリトリスですからみたいな顔していたくせに、全然関係ないんかい!! と思った。

T+10 退院後5日目

朝から患部より血が滴り落ちていることに気付く。
赤黒いドロっとした血だ。
これはよくあることだと聞いていたのでそれほど慌てなかったが、久しぶりに出血を見たので少しだけ驚いた。

しかも、ちょっと出て終わりではない。継続的にポツポツと滲み出てくるような感じで、ナプキンがあっという間に真っ黒く染まってしまう。

ナプキンだけこまめに取り換えることにして、あまり気にしないようにした。
結局この出血は、以降数日間続くこととなる。

一応、朝の消毒で看護師のエミちゃんが出血に気付き、処置をしてくれた。
……ぷっくりと膨れ上がった小陰唇の内部に鬱血した古い血が溜まっていて、それが腫れの原因の一つになっているので、ギュウギュウと上下左右から押し込んで搾り取るのだ。

オマーン湖地形図

小陰唇と割れ目の境目に沿って、糸で縫った痕があり、その隙間からボタボタと血が流れていた。
よって、腫れ上がってプルップルになっている小陰唇をギュウとやって血血しぼりされることになる。

一通りの処置が終わった後、エミちゃんやナオミさんの見立てによると、あと数日もすれば真っ直ぐ歩けるようになるだろうとのことであった。

毎日苦しくてしんどい中、この言葉はかなり大きな拠り所となった。

しかしこうやって改めて図にすると、本当にこれが普通の綺麗な女陰になるのか??? と感じざるを得ない。
なんか、なるらしい。

しかしそれには数か月~1年単位のダウンタイム(術後の回復期)が必要とのことであり、本記事執筆時点(術後約1か月)でも別に治っていない。
ちょっとずつ小さくなってはいるようだが。

本当にちゃんとしたまんこになるのだろうか?

T+11 退院後6日目

本日も血血しぼりを行っていく。
エミちゃんが優しく容赦なくギュウとしぼり上げてくれるため、血が一気にボトボトボト!! と零れ落ちてくる。

前述した通り、縫合部の隙間から血が滲み出てくる感じになっているため、いっそこの部分を抜糸して隙間を大きくし、内部で凝り固まっている血液を全部除こうということになった。

「抜糸!!!」とすごい声が出たのを覚えている。
なんでわざわざ一番腫れているところに刺激を加えるのかという心の声が全部のっかってしまった気がする。

抵抗むなしく抜糸が行われ、くぱっと開いた創部に力を込めてギュっとやられる。
するとまあ、驚いたことに、すごく大きな血の塊がゴロっと出てきた。
ボドボド…と流れ落ちてくる血液。
ボドム!! とまろび出てくる血の塊。
荘厳な景色である。

あまりにたくさん血液を排出したので終わった時にはどこか気持ちよくすらあった。
おかげで、血血しぼりを行う前と比べると、心なしか腫れの程度がましになった。

午後にはホテルの外へ出てナオコさんと一緒にコンビニに行った。
白身魚をソテーしたお弁当、タイのカップ麺2種、ココナッツウォーター、謎の和風インスタントスープ「おたご」を買った。

それから近所の薬局にも寄って、綿棒、コットン、消毒液、精製水、胡麻油の匂いがする軟膏「ミーボ」、白い抗生物質を大量に購入した。
日本に戻ってからも、2か月ほどは自分で消毒を続けなければならないとのことである。
売っていた中で一番デカいスーツケースを持ってきていたのだが、その半分が埋まっちゃうぐらいに大量の医薬品を調達した。
ただ、体感的に日本よりもだいぶ安くて助かった。

T+12 退院後7日目

長く苦しかったタイでの生活の中で、唯一手放しに楽しかったと思えるのがこの日だ。

手術から12日経過した月曜日のこと、やっと一定の距離を歩けるようになってきたので、観光に連れ出してもらったのである。

アテンド会社にお願いをして運転手さんとガイドさんを手配。
ガモン病院の患者であることも申し添え、ゆっくりと自分のペースで回れるように計らってもらえた。

ガモン病院はバンコクの中心部からは少し離れたところにあるので、車で1時間ほどかけて(渋滞込み)都心へと移動する。
午前は有名な寺院のうち2か所、ワッㇳ・アルンとワッㇳ・ポーを見に行った。

しかし、長いベッド生活のために信じられないぐらい体力が落ちていた。
したがって、ちょっと歩いては店に入って休み、またちょっと歩いてはベンチに腰掛けるといった具合であったが、初めて経験する外国の観光は感動的に面白かった。

午後にはアイコン・サイアムという大型ショッピングモールに案内してもらい、日本にいたら絶対買わないようなものを馬鹿みたいに買った。
ファッションとか全く興味ないのにメチャクチャいっぱい服を買った。
チャイナドレスも買った(意味不明)。

仕上げに夜ご飯のカオマンガイ(2回目)を購入してホテルに帰宅、うんと疲れていたためぐっすり眠った。
とてもよい一日だった。

T+13 帰国2日前

久々のガモン医師の診察である。
今日はとうとう、経過に異常はないか、帰国しても大丈夫かを見定める最終チェックが行われる。
消毒とは違ってホテルでは診察できないため、車を用意してもらって病院へ向かう。

たくさんの個別ブースの中に一台ずつ診察台が並んだ部屋へ通され、寝転がって先生を待つ。

もう踏み台がなくてもベッドに上がれるぐらい痛みはよくなっていた。

しばらくしてガモン医師が到着し、丁寧に患部の様子を観察し始めた。
そして私に笑顔で何か言い、同行していたナオコさんに一言二言伝え、去っていった……結果はグッドだそうである。
無事に、予定通り帰国できることが決まった!

何かの記録のためだろう、詳細は不明だが看護師さんにゴツい一眼レフであらゆる角度からまんこの写真を撮られ、それから各種の証明書を受け取った。

性別適合手術を終えて男性器から女性器になったことの証明書、帰国後に休職と静養を必要とする旨の診断書、新型コロナウイルスPCR検査陰性の報告書、心電図、レントゲン、タイ人精神科医による性同一性障害の診断書、空港で車椅子と特別の配慮を要請する証明書。

もう帰国まで一両日もないという実感が急に湧いてきた。
入院していた時は、もう何もかもが嫌になるぐらい長かったが、こうして振り返ってみると、あっという間だった……

なんてことはなく、普通に二度とごめんだと思った。
メッチャ長かったし、メッチャ苦痛だったし、メッチャ暇だった。

手術も入院も二度としたくない。

T+14 帰国前日

ナオコさんと会う最後の日になった。
再び荷物を詰めなおし、退院と帰国のための様々な準備を全部やった。

あと、筆者は World of Warships というクソゲーをやっているのだが、それ経由でフォローしてくれていた人がタイ人だったようで、なぜかわざわざホテルまでやってきて大量のお土産を渡してくれた。

親切か?

ナオコさんとのお別れはもっとしんみりするかと思ったが、最後まで明るくさっぱりした感じで挨拶を済ませた。
彼女の支えがなければ、入院生活は肉体的にも精神的にも遥かに悲惨なものになっていたはずで、感謝してもしきれない。

こんなにもお世話になったのに、おそらく一生涯再会することはないであろう人だということが、ちょっと信じられない気分でいる。

T+15 帰国当日

早朝5時、ホテルをチェックアウト。
ナオコさんに代わり、アテンド会社の代表であるイケた感じの兄ちゃんが送迎をしにやってきてくれた。

まだうっすら暗い時間帯で、渋滞に捕まることなくスムーズにスワンナプーム国際空港へと到着した。
朝6時すぎごろ、車椅子の手配と優先搭乗の手続きを代表が済ませてくれ、空港職員に押されて私は搭乗ゲートの中に入っていった。

7時半ごろになり、ターミナルも明るくなってくる。
空港職員の案内を受けて私は飛行機に乗った。
8時半、離陸。
10時、爆睡。
14時、起床。
15時、着陸。

時差を考慮すると5時間半程度のフライトであった。
行きのフライトはあんなにも退屈で長く感じたのに、帰りはあっという間で不思議だった。
よく考えたら寝てたからだった。

空港には両親と夫が迎えに来てくれていた。
感動的な帰国、感動的な再会、空港で思いっきり泣いて見せてやろう! と思っていたけれど、案外全然泣けなかった。

そんなことより豚骨ラーメンが食べたかったのである。

since T+16 そして……

帰国以降、自宅で寝転んでスマホを見たり、ちょっと起き上がってパソコンでゲームをしたり、やっぱり寝転んでダラダラするという毎日を送っている。

私は自分のことをニート適性が高いと思っているので、こんな生活でも一向に構わない。
とにかく家に引きこもってずっと大人しくしている。

実質的には入院中とそんなに変わらない生活をしているはずなのに、住み慣れた自分の部屋で過ごし、「もしやりたければ立ったり歩いたりもできる」というだけで心の持ちようが全然違う。

なんというか、楽だ。本当に。

1日2回の消毒は正直ちょっと面倒くさいと思うこともあるが、十分に腫れが引くまでは仕方がない。
早くよくなってくれと願うばかりである。

帰国以降は、術後の具合の変化がとてもゆっくりなので、ここで一旦の締めにして筆をおきたいと思う。
半月から一月単位で何か変化があった場合、続きの記事を書くかもしれない。
私がそうであるように、「結局この腫れが完全に引いて一切の不自由がなくなるのはいつなのよ!?」と思っている人は多いだろうから。

個人差が非常に大きく、人によって経過も千差万別という手術であるから、こんな記録でもないよりはあった方が役に立つだろう。

T+27 である現在、偽クリトリスも少し大人しくなったとはいえ、やはりまだチクチクする。
そのくせ、まるで治りかけの瘡蓋のように、無性にかゆい時がある。
しかも偽クリトリスの上端部が陥没(?)し始めて妙に心配である。
こいつは一体どこまで迷惑をかけたら気が済むのだろうか。

一刻も早く和解の日が来ることを、みんなにも祈っておいてほしい……。

タイで食ったものの一覧 - Wikipedia

カオマンガイ
カオマンガイ2
トムカーガイ
カオパッㇳ
カオパッㇳ2
カオパッㇳ3
パッタイ
トーㇳマンクン
トーㇳマンクン2
パッㇰブンファイデーン
パッㇰブンファイデーン2
ソムタム
キャベツの醤油漬け焼き(名称不明)
あんかけ麺(名称不明)
鶏肉を揚げたやつ(名称不明)
鶏肉を揚げたやつ(名称不明)2
白身魚のソテーの弁当
おたご
その他たくさんの病院食(名称不明)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?