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【日本国記】 第二章 7・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい― 土方水月

4 平安京には迦毛大御神が


 平安京は藤原氏と秦氏が造った。秦氏は秦の始皇帝の裔といわれる。藤原氏はもとは中臣氏であった。中臣氏は関東の出と思われているが、元は出雲である。中臣氏の先祖は天児屋命である。

 天照大御神が天の岩戸にこもり、この世が暗くなった時に、思兼命が八百万の神々を集め協議した。神々は集いに集いて諮りに諮りた。そのときに祭具の制作を行い占ったのが太玉命と児屋命であった。太玉命が忌部氏の祖であり、児屋命が中臣氏の祖である。

 藤原氏のもとである中臣氏は児屋命の裔であり、「仲冨」であった。「仲冨」は「仲国」にいた「富」であった。「富」は「登美」であり、「登美」は「登美のナガスネヒコ」の「登美」でもある。奈良の纏向の南の鳥見山には等彌神社がある。鳥見山は「登美山」であり、「等彌神社」は「登美神社」である。そしてその「登美」の前は「富」であった。

 「富」は出雲の東王家であった富家の「富」であった。出雲の富氏は、国譲りによってヤマト側に国を譲り、東に追われ、関東に逃げ延びた出雲の勢力であるスサノヲの八人の皇子であった「八王子」の子孫たちであった。今の千葉の総国の仲国にいた「富氏」が「仲富氏」となった。

 そして、「仲富氏」は「中臣氏」となったのである。そして「中臣氏」は「藤原氏」に。「中臣氏」が「藤原氏」になったのも、「仲富」の文字を消すためではなかったか。

 藤原氏は今の京都である山背国に平安京を造った。「山背」は山を背にする場所の意味と思われるが、「山代」とも「山城」とも書かれる。

 平安京は藤原氏と秦氏が造ったが、藤原氏は出雲の富氏、つまり出雲の王の子孫であり、秦氏は秦の始皇帝の子孫であった。秦の始皇帝の名は「瀛政」という。秦は今の中国の最西部に位置した。中国ではローマ帝国のことを「大秦国」と書く。秦は西域人の国であったかもしれない。聖徳太子と呼ばれていた厩戸御子はペルシャ人の装束であった。

 出雲の伝承では、出雲の王であった第八代大名持は「大国主八千矛」であったといわれる。そして、大国主の子がアジスキタカヒコネ(建角身タケツノミ)であったといわれる。しかし、ヤマトの伝承では、建角身の父は大国主(オオナムジ)であったといわれる。オオナムジはどこから来たともわからない出自不明の人物といわれる。また、建角身タケツノミの叔父である大年オオドシは、出雲の生まれであったにもかかわらずヤマトのアマテラスとなったという。そして大年は天照国照彦火明櫛玉饒速日と呼ばれたという。

 
 
 大国主ナムジがナガスネヒコとの戦いでもう駄目だと思ったときに、手に矛を持ち海を照らしながら大きな船団で大国主を助けに来た。海照(アマテラス)火明であった。

 また、大年の伯父である少彦名スクナヒコナは知恵の神であった。少彦名は体が弱く、その分学問を学び知識の神となった。大国主の義理の伯父でもあった。大国主の参謀であり、ナガスネヒコとの戦いでは軍師となった。少彦名は大年の伯父、大国主の義理の伯父、建角身の祖父(スサノヲ)の兄であった。

 「少名彦」は出雲の副王の名である。その名をもじってスクナヒコナ(少彦名)と古事記は呼んだ。本当の名である「少彦名」の弟子は大年とクエビコといわれる。クエビコは大国主の側近であった。クエビコは大国主を助けた。タニグクもいた。彼も大国主の側近であった。

 タニグクとは「カエル」のことである。クエビコとは「カカシ」のことである。どちらも「あだ名」である。タニグクはカエルのように、クエビコはカカシのように働いた。カカシはずっと動かないのが仕事であった。クエビコはずっと出雲を守っていた。大国主が出雲を離れたときもずっと出雲で待っていた。大国主が帰って来たときに報告できるようにずっと出雲を守っていた。ずっと動かずに待っていた。それでカカシと呼ばれた。

 大国主は建角身の父であった。父の側近クエビコも父と同世代であった。また、大年は大国主と同世代であった。大国主と大年は子供の世代のために、出雲をまとめ、さらにヤマトを平定したのであった。

 

 大年がアマテラスになり、大国主は大国彦となったという。ヤマトの伝承では、天皇家の始祖は大国主であったのか、それとも大年であったのか?

 ヤマトの王となったのは大年であった。大年は亡くなった後、三輪山に祀られた。そして大年の子が神武天皇になったアメノムラクモであった。そしてまた、大国主の子が建角身であった。しかし、建角身は大国主の子となってはいたが、実はアメノムラクモと双子であったため、大国主の養子となったといわれる。そのため渡来したともよくいわれることとなった大国主(オオナムジ)は、渡来したのではなく、実は出雲の王大国主(大名持)であり、大年こそが渡来したフツノミタマを受け継ぐものであった。

 後世、古事記の編纂者が神武東征のときに神武天皇を援けた「八咫烏」になぞらえた。建角身は神武天皇を補佐した「八咫烏」として「迦毛大御神」と呼ばれた。そして、建角身と双子の兄弟であったアメノムラクモは神武天皇と後に呼ばれるようになった。彼は次の「天照大御神」となったのであった。

 今年の葵祭は雨のため1日順延されたが、平成太上天皇皇后も路中の儀に来席なされた。葵祭は「賀茂祭」である。京都御所を出発し、下賀茂神社を経由し、上賀茂神社に至るルートを進む。

 「賀茂祭」は、天皇の勅使を中心とした路中の儀の行列に加わる者たちが、葵の葉を頭に飾ることから「葵祭」と呼ばれるようになった。葵は賀茂神社の社紋である。

 下賀茂神社は賀茂御祖神社という。建角身とその娘が祀られるといわれる。娘の名はタマヨリヒメ。しかし、記紀の中でのタマヨリヒメは、ウガヤフキアエズ命の妻であり、神武天皇の母である。ここに秘密がある。

 賀茂御祖神社に祀られるタマヨリヒメは、建角身の妹であるシタテルヒメであって、アメノワカヒコの妻となったシタテルヒメである。そして、アメノワカヒコは建葉槌でもあり、アマテラス大年の「若」アマテラスであった。つまり、アメノワカヒコは「若」天照大御神であり、シタテルヒメはその妻であった。神武天皇の妻であった。シタテルヒメはタマヨリヒメであり、アメノワカヒコこと建葉槌は建角身の双子の兄であり、シタテルヒメが嫁いだ神武天皇であったことに。

 結局のところ、賀茂御祖神社の御祭神はタマヨリヒメことシタテルヒメであって、その親である大国主を祀っていることになる。そして、シタテルヒメの兄であった建角身も祀られていた。

 そして、上賀茂神社である賀茂別雷神社は、建角身の双子の兄である建葉槌ことアメノワカヒコを祀っていることに。そう、アメノワカヒコは神武天皇であった。神武天皇を助けた八咫烏こと建角身はアジスキタカヒコネとも呼ばれる。そして迦毛大御神とも呼ばれる。

 賀茂別雷命を祀る賀茂別雷神社は、迦毛大御神である建角身とアメノワカヒコこと神武天皇を祀る。天照大御神に唯一対応する「大御神」という名の迦毛大御神は建角身ではあったが、共にここに祀られるもう一人の神は、賀茂別雷命であった。つまり、ここには迦毛大御神こと建角身と賀茂別雷命とアメノワカヒコが祀られていることに。

 そしてこのアメノワカヒコこそ、大年のつぎの天照大御神であり、本当の神武天皇でもあり、本当の迦毛大御神でもあったのである。

 建角身と双子の兄弟であったアメノワカヒコこと建葉槌は、武御雷とも呼ばれた。建角身とシタテルヒメとの父である大国主から、もとの出雲である賀茂から国譲りをさせた建御雷命でもあり、本当の神武天皇でもあった。

 賀茂別雷神社には二つの砂山がある。その天辺には松葉がさしてある。松葉は二つが一つになっている。ここには迦毛大御神と天照大御神が祀られている。

 そして、このほんとうの神武天皇の名は、「アメノムラクモ命」とも呼ばれる。


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