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【日本国記】 第二章 8 日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい― 土方水月

5 倭と百済と日本

 桓武天皇の母は高野新笠である。百済人である。そして少し前の枚方市長も百済人であったという。とはいえそれは1200年前のこと。今ではれっきとした日本人である。そもそも倭人には百済人も含まれていた。

 日本でも古墳にある墓誌はその時代を知るうえで最も重要な情報の一つであるが、678年2月に唐の都長安で亡くなった百済人禰軍という人物の墓誌には「日本」という文字がある。

 そしてその墓誌には、「大唐故右威衛将軍上柱国禰公」とある。公の諱は「軍」、字は「温」、「熊津嵎夷人也」とある。「その先興華同祖、永嘉末、乱を避け東に適し、、、」と続き、この人物が白村江の戦いの前660年に百済王と共に唐の捕虜となり、その後唐側の将軍として活躍したということらしい。

 この碑文に書かれていることを含め歴史的に整理すると、660年に唐・新羅の連合軍により百済は滅ぼされ、碑文にある百済の禰軍は王族と共に唐の捕虜となり、その後は唐の将軍となった。そして、663年5月に百済の残党が王族の扶余豊璋を迎え百済復興を目指し再起を図ったときにも熊津都督府の討伐軍として働いたらしい。その10月白村江の戦いで唐・新羅連合軍は再度、百済の残党と倭の連合軍を駆逐した。666年から668年には唐・新羅連合軍は高句麗にも出兵し、668年9月には高句麗も滅ぼされた。

 しかし、唐は新羅に朝鮮半島の統治を任せるのではなく、百済や高句麗の遺臣に統治させるという方法をとった。百済には熊津都督府を、高句麗には安東都護府を設置していた。それに反発した新羅の文武王(武烈王金春秋の長子)は、670年新羅に亡命していた高句麗の王族の安勝を倭に朝貢させ、さらに新羅は674年には安勝を高句麗王として旧高句麗に再封し、宗主権を主張したという。さらには671年には唐の支配下である旧百済にも攻め込んだ。そのため674年には唐が新羅討伐のため出兵したが、676年11月新羅は唐軍に勝利し、唐の支配を退け朝鮮半島を統一した。

 つまり、678年に唐の長安で亡くなったという元百済の将であった禰軍は、これらの戦いの中にいたと思われる。そして、亡くなる二年前の676年には旧百済の地が新羅によって完全に征服された結果、唐に残っていたということである。

 また、禰軍は倭にも来ていたらしい。実際、665年(天智4年)9月庚午朔壬辰に散太夫淅州司馬馬上柱国劉徳高という人物が唐から倭に派遣され、その一行に右戒衛郎将上柱国百済禰軍も含まれていたらしい。その一行はおよそ254人で、665年7月28日に対馬に到着し、8月20日に筑紫に来たことが分かっているといわれる。倭と唐の資料で年に多少の食い違いはあるが、天智天皇の御代であることは変わりない。

 これらのことから、665年時点においては倭の筑紫も唐の支配下にあり、筑紫太宰にも熊津都督府と同様の都督府が置かれたのかもしれない。そのためこの碑文にもあるように「日本」は東の扶桑に逃げ罰せられるのを逃れていると書かれたのではないか。唐でいえば高宗李治と武則天の時代である。唐に敗戦した倭は筑紫を制圧され、東の扶桑に逃げたのが日本であったように書かれた。実際、天智天皇が都を滋賀の大津に移したのはそういう時代であった。

 その後の672年壬申の乱を経て天武天皇の唐融和政策により、天武朝のあとの持統朝には唐の長安をまねた藤原京ができる。つまり、倭は唐によって滅ぼされ、その後は天武持統朝を引き継ぐ文武天皇の御代701年に日本となったように考えることもできる。

 それまでの倭は、朝鮮半島の伽耶任那を含む九州を中心とした一体であった可能性が高い。秦や漢や隋唐が中国大陸を統一し、その影響によって流れてくる“ボートピープル”がたどり着くところは大体において、九州西岸であった。

 九州西岸には、秦の時代にはその後日本では饒速日とも呼ばれる徐福らが有明海に渡来した。また漢や三国時代には呉や越などの人々が、隋唐の時代には朝鮮半島の人々がやはり九州や日本海側に渡来した。その結果、今の日本人が出来上がったのであるのは確かであろうと思う。

 つまり、倭人には、呉の人々や百済や伽耶任那や高句麗の人々も含まれていたといってもよいのではないかとも思われる。耽羅(田村)も金羅(木村)も今となってはみな日本人である。


 そういえば今の神社の狛犬は、「キツネ」の処もあるが、ほとんどの神社では「高麗犬」である。高麗は独楽でもあるが、高句麗でもある。日本の神社に「高麗犬」がいるということは高句麗と無関係ではありえないのである。それは今の北朝鮮でもある。

 

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