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【日本国記】 第二章 11 秦と幡多1・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 

11 秦と幡多 1  

  663年の白村江の戦いの後、倭は滅んだではないかともいわれる。なぜなら、先に述べた”日本碑”に書かれたように、九州に唐の占領軍のような軍隊がやってきている。その”日本碑”には、「日本は東の扶桑に逃げ罰せられるのを逃れている」と書かれている。

 どこから逃げたのかといえば韓半島からである。韓半島から当時扶桑の国と呼ばれた日本列島に逃げたのである。つまり当時の倭人は韓半島にも居たのである。さらにいえば、7世紀前半までは韓半島から九州にかけてが倭であった。九州では本州では使われていない元号が使われていた時期があったともいわれる。

 韓半島にあった伽耶の任那は「本国(御真那)」という意味であったともいわれる。契丹古伝には殷は古の倭であるとの記述があり、その倭人の国は殷人(商人)の国の末裔ともいわれる。また、彼らは聖書にあるようにユダヤ12氏族の末裔であるともいわれる。そして、B.C.3世紀とAD3世紀にやってきた秦氏もその末裔であった。太秦王はイエスの子孫であり、契丹王もそのまた子孫の切支丹(契丹)であった。

 聖書のヤコブの手紙にはこうある。「散り散りになっている12部族へ挨拶を送る」と。また、「地の果ての島々」であり、「日の出るところから主の名を呼ぶ」ともある。

 北にあったイスラエル王国の民はアッシリアに滅ぼされ東に向かい散り散りとなった。北のイスラエル王国の民は10部族であり、”失われたユダヤ10氏族”とも呼ばれる。

 預言者イザヤによって示された、東の果ての洪水伝説のウトナの仙人のいる島山である蓬莱島を目指した彼らは、その荒ぶる東海の海をなかなか渡ることができずに韓半島にとどまったという。ウトナは宇土那であり、烏土倭であり、烏伽耶(任那)でもあったといわれる。当時の韓半島には今の韓国民ではなく、倭の熊襲の民が住んでいたといわれる。そして彼らは倭の熊襲の民と子孫を設けた。その子孫が九州に渡り熊襲と呼ばれた。

 古事記研究の第一人者でもある「古事記伝」の著者本居宣長は今は球磨川流域に住む人たち(熊襲の末裔)が韓半島にいたとき(熊襲であったとき)に使っていたのが神代文字であるとしたという。そしてその熊襲は勾呉と伽耶と百済と蓬莱(芳来)の球磨を中心とした九州倭人の中心的民族であったともいわれる。

 その九州と韓半島を含む倭人の国は滅ぼされ、唐の占領統治下のようになった。そうして天智天皇は東の近江に遷都した。どの時代も東に逃れるしかなかったのである。数万年前に日本列島にたどり着いたホモサピエンスも、その後のフェニキア人を含む縄文人も、その後の弥生人も、紀元後の勾呉や熊襲も、もっと言えば天皇の家系も西から日本列島にやってきた“渡来”の人ではあった。

 その後の672年の壬申の乱を経て大海人皇子が天武天皇となり、唐融和政策を行うことにより日本を名乗るようになるのであった。天武天皇の后であった持統天皇の御代になり、古い倭という国名をきらい日本という国号を用い、文武天皇の御代にやっと唐にそれを認めてもらうことができたのであった。それは701年のことであった。

 それまでの倭は、朝鮮半島の伽耶任那を含む九州を中心とした一帯であった。人類の始まりから東に移動した人々はつぎつぎに日本列島に”渡来”した。また、その後の秦や漢や隋唐の中国大陸統一により、その影響によって流れてくる“ボートピープル”でもあった勾呉を中心とするたくさんの渡来があった地は九州西岸であった。つまり、倭人と呼ばれる人々には勾呉や百済や伽耶任那や高句麗の人々も含まれ、日本列島に天下った天皇家や熊襲だけではなく、加羅(伽耶)や熊羅(玖村)や耽羅(田村)や金羅(木村)も今となってはみな日本人となっているのである。

 そして、イザヤは諫早に。

 つづく

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