わかってもらいたいから
なんのために書いているだろうと、ふと我に返ることがある。
自分のため?誰かに見てもらいたいため?生きている証を残すため?自分を知るため?
どれもそうなんだけど、どこか違う。たしかに自分のためでもあるし、誰かに見てもらいたいというのも当然ある。
ただ、いまいち腑に落ちない。的外れではないんだけど、バシッと当てはまる感じではないのだ。
もしかしたら、書くときの原動力って、その時々で変わってくるのかもしれない。
最初は、なにもわからず、単純な思い付きで投稿した。自分の人生を意味あるものにしたくて、誰かに見てもらいたくてやったと思う。
書くことが習慣になってくると、見てもらえるんだという嬉しさと同時に評価される苦しさもあった。
もっと見てもらうにはと考えた時期もあったし、でもこれは個人的な日記みたいなものだ、自分のために書くのが一番ではないか。そんな葛藤で揺れ動いた。
自分がなにを考えているか、キーボードをたたくことで「そういうことか」と教えてもらう楽しさも知ったし、自分の内側が伝わった安堵感も経験できた。
別に仕事ではないし、いつでもやめれたけど、意地でも続けようと思うこともあったし、たとえ見てもらえなくてもやることに意味がある、と自分を励ますこともあった。
書くことをやめなければ、いろんな感情や出来事を振り返れるし、多少なりとも生きがいを感じられる。
じゃあ、いまはなんのために書いている?
そんなことを考えながら、Youtubeを眺めていたら、養老孟司さんの講演?の動画が出てきたので、なんとなしに見始めた。
養老さんが生きづらさについて話している。ラジオ感覚で画面を見ずにBGM代わりに流していたら、
わかってもらおうとして、表現が育つ。わかってもらえない人ほど表現する努力をする。そんな努力しようと思っているわけではない。わかってもらえないと生きていけない、困るからです。
というようなことをおっしゃっていて、いま書いている原動力ってこれかもなと、すとんと腑に落ちた。
他人にわかってもらえない人は、わかってほしいから、いろいろ試行錯誤する。
自分がいま書いている根本にはこの「わかってほしい」という気持ちがあるんだろうなと思います。これは書くことに限らずだろうけど。
自分にしかわからないことをもっと伝わってほしくて書く。それが伝わったり、伝わらなかったり。それの繰り返し。
もちろんすべてを理解してほしいとは思ってはないし、全部が全部わかってもらう必要はないけれど、わかってもらわないと困る局面はあるよなぁ、と。
おとといくらいにこの話をYoutubeで見て、忘れないようにと、ここに書いてみました。わかってほしかったのかぁ、ぼくは。またひとつ自分を知れました。
最後まで、読んでくださってありがとうございます!