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人はそれぞれの世界を見る

なにか新しいものの見方を知って、視点が増える。

これほど面白いものはない。

「海の水はなぜ鹹い(からい)」という昔話がある。

これは、6年くらい前に柳田国男『日本の昔話』という本で読んだ。内容が面白くて、いまだにそのおおまかなストーリーをある程度暗唱できる。短い昔話が100篇ほどおさめられているその本で、唯一覚えている作品だ。

この話はタイトル通り、なぜ海の水は塩辛いのかを巡るアナザーストーリだ。


むかしむかし、あるところに兄と弟が住んでいた。兄はお金持ちで、弟は貧乏。年の暮れ、お正月の準備もできない弟は兄にお米を借りようと出掛けるが、兄は聞く耳持たず門前払い。

肩を落として歩く帰り道、弟は小人に出会い、右に回せば、欲しいものが何でも出る、左に回せば出なくなる「臼」をもらう。

臼のおかげで弟はにわか長者になる。急に豊かになった弟を不審に思った兄は、あるとき臼の秘密を知る。弟が寝静まったのを見計って、兄は臼を盗んで、舟にのり海に出る。無人島に行き、1人で長者になろうとしたのだ。

舟の上で兄は塩気のものが欲しくなり、塩を出す。しかし、兄は欲しいものを出す方法知っていても、止める方法は知らなかった。

塩は止まらず出続け、その重みでとうとう舟は壊れ、臼は海の底深く沈んでしまった。左に回すものが誰もいないから、臼はいまも塩を出し続けている。だから海の水は塩辛い。


いまでも大好きな話で、人にも結構話している。海の水がしょっぱいのは、臼が塩を出し続けているなんて、なんとも夢のある話ではないか。

この話を知ってから、海を見るともれなく「塩を出し続ける臼」が頭のなかでイメージされるようになった。これはとても面白い現象だ。誰かの作った話が、巡り巡ってある1人の人間の視点を増やしてくれたのだから。

思い返せば、小学生の頃、金子みすゞの詩に惹かれてたのも、そういう面があったのかもしれない。

人は大漁で喜んでいるけど、海のなかではいわしのとむらいが行われているだろう(「大漁」)とか、昼の星は見えぬものでもあるんだよ(「星とたんぽぽ」)とか。

そうか、いわしは悲しんでるよなと思う海には1匹1匹の物語があって。昼の空にも星はあるんだよなと思う空には、たしかな存在が感じられて。

生きていくなかで獲得した視点で、人はそれぞれの世界を見る。

自分ひとりで得る視点には限界があって、だから人は人と関わったり、本を読むのかもしれない。



最後まで、読んでくださってありがとうございます!