いくつになっても初心者
外を歩いているとき、自然と花に目が止まるようになった。
ただ単に年齢を重ねたからなのか。はたまた花の儚さ、美しさを感じ取れるようになったのか。それともほかの理由があるのか。
千葉県松戸平賀に「本土寺」というお寺がある。
あじさいが有名な場所らしく、電車に揺られて行ってきた。
道端に咲いている花を見ることはあっても、わざわざ花を見ることを目的に出掛けることはあまりない。
北小金駅から約10分。駅からまっすぐ伸びた道を進むと、本土寺の参道が見えてくる。立派に生い茂った木々が道の両端に立ち並び、熱い日差しを遮ってくれる。遠くの空を見ると、おおきな入道雲が見えた。
あじさいと菖蒲が咲く時期は有料期間になるらしく、大人は500円の参拝料がかかる。しかし、結果から言うと、そのお金に見合う価値が十分にあった。
境内は思った以上に広く、全部をゆっくり見て回れば、優に1時間はいられる。思わず目が奪われる景色の宝庫で、感嘆の声を心のなかで何度も繰り返した。
あじさいをまじまじと見たことなかったけど、あまりに可憐でおもわず写真を撮りまくる。
花の楽しみ方はまだまだ勉強中だけど、自分なりに鑑賞。いい時間の過ごし方をした。
「しくじり先生」を見ていたら、そこで出てきた言葉に胸を掴まれる。
世阿弥が残した「時々の初心忘るべからず」という言葉。
初心というのは物事のはじめだと思いがちだけど、それぞれの段階で人は初心者であるんだよ、それを忘れるなという意味らしい。
人いくつになってもそれぞれの年代の初心者である。20代のときは20代の初心者だし、30代のときは30代の初心者だし、40代のときは40代の初心者なのだ。
それぞれのステージ毎に、人ははじめてを経験する。
身近な例に引き寄せれば、花を見ることも初心者だ。どう見るかわからないのは当然。なにせ初心者だから。
この前はじめて行くミニシアターで、チケットの発券にてこずったり、上映までの時間の過ごし方に困ったりするのも当たり前なのだ。
初心者なのだから、まごついてもいい。
大事なのはそこからなにを学び、次に生かすかということ。
最初から完璧にこなすなんて到底できるわけがない。いくつになっても、初心者である場面はやってきて、すこしずつすこしずつ学びながら、実践を積んでいく。なんだって、そうなのだ。
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