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フルネーム

小学校を卒業してから、まったく会っていない友達がいる。

別に、仲が悪くなったわけでもないのに、なんとなく疎遠になった。

こんな現象が、学校を卒業するたびに起こったけど、あれは一体なんなんだろう。


ぼくらの学年は、人数が少なかった。ちょうど狭間の年代だったのか、ひとクラス20人くらいしかいなかった。

1組と2組しかないクラスは、いつ統合されてもおかしくないと囁かれていたが、結局6年間、統合されることはなかった。

その少なさだったら、全員と1回くらいは同じ机を並べてもいいものだが、6年間、同じクラスに一度もならなかった同級生が何人もいた。

不思議だ。

クラス分けをくじ引きで決めていたのだろうか。まさかそんなことはありえないだろうが、先生たちはどのようにクラスを編成していたのだろう。

そんなまだ半そで、半ズボンでも平気だったころを懐かしむと、あるクラスメイトのことが思い出される。

その子は、背が低く、子どものようだった。(ぼくも、人のことを言えた義理じゃないが)もちろんみんな同じ年齢なのだから子どもなのは当たり前だが、同級生のなかでも、とりわけ幼かった。

ぼくと彼は、学年のなかでも背が低く、背の順では常に一番前の席を争っていた。彼とおなじクラスになれば、ぼくが2番目になる可能性があり、違うクラスになれば、ぼくと彼は、それぞれのクラスの先頭に自動的に押し出された。

彼とは、何回か遊んだこともある。ゲームをしたり、駄菓子屋に行ったり、外で遊んだり、いわゆる小学生がする普通の遊びだ。

あと、すっかり薄くなった記憶の中だと、彼はマンガが好きだった。よくノートに自作のマンガを描いていた印象がある。

記憶とは、時間が経つと薄れるもので、この情報があっているのかは、どうも心許ない。まったくの記憶違いの可能性だってある。

けど、ひとつだけ確かなことがある。

背が低いとか幼いとか、マンガ好きとかではなくて、彼を彼たらしめたのは、ある変わった特徴だった。

彼は、クラスメイトの名前を呼ぶとき、必ずフルネームで呼んでいたのだ。

例えば、田中太郎という同級生がいたとする。みんなは、「たっくん」とか「たぁーちゃん」とかあだ名で呼ぶのに、彼だけは律儀に「田中太郎君」と呼んだ。

なにげない会話でも、彼は徹底してフルネームを使った。「田中太郎君は、明日なにしている?」「田中太郎君、それ取って!」

こんな奇妙な特徴を持った人間は、ぼくの人生のなかで、いまのところ彼ひとりだ。

一度、誰かが「いちいちフルネームで、呼ぶのめんどくさいから、あだ名でいいよ」といったこともあったが、彼は6年間、その流儀を貫き通した。

途中で変えるのが恥ずかしかったのか。それとも彼のフルネーム呼びには、なにか確固たる意図があったのだろうか。同級生といえども、敬意を忘れずにという両親の教育なのだろうか。

とにかく彼は、フルネーム呼びを続け、それはいつの間にかクラスにしっかりと定着していった。もはや誰も訂正するものはいないし、違和感を覚えることもなかった。逆にあだ名で呼ばれたら、こっちが困惑してしまうほどに、彼のフルネーム読みはクラスの風景に溶け込んだ。

石の上にも三年いや六年。その初志貫徹ぶりは、あっぱれなものだった。


そんな彼とは、小学校卒業以来会っていない。

小学校のすぐ隣には、中学校があって、同級生のほとんどはその中学校に進学したが、彼はすこし離れた中学校に行ってしまったのだ。

それでも、会おうと思えばいつでも会えるのに、彼に会うことはなかった。

学校が違うだけで、ぼくと彼の間には、目には見えない薄くて透明な壁ができてしまったみたいだった。互いに壁の向こうは見えるのに、そこはもう別世界で、容易に行き来はできないような、とてつもない距離を感じた。

あれからずいぶん時間が経った。

大人になった彼は、いま何をしているのだろう。フルネーム呼びは、まだ律儀に続けているのだろうか。

#エッセイ #コラム #日記

Twitter:@hijikatakata21


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