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散歩に救われる

歩くのが好きだと最初に自覚したのは小学一年生の頃だったと思う。
転校してしまったため一年も通わなかったが、大人の足でも15分かかる小学校に通学していた。子どもだった私はおそらく毎日30分くらいかけて歩いていた気がする。

しかし、そんな長い長い通学路は私にとって全く嫌なものではなく、むしろ大冒険を毎日繰り広げているような気分だった。ニュータウンの住宅街の中だったので自然も多く、色々な形のどんぐりを黄色い帽子に入れて集めたり、つつじの花の蜜を吸ったり、見たことのない木の実を友達と自慢し合いっこしながら帰った。

両親は通学時間がかかることが心配だったようだが、当時の私は全くそんなことに気づかず「登下校の道楽しい!歩くの最高!」といった具合であった。
これが私にとって最初の散歩が楽しい!と思った記憶である。



月日は流れ私も中学生になり、この頃のトレンドはもっぱら、プリクラを撮ることやSNS、恋バナ、カラオケ、GReeeeNの新曲、最新の漫画などであった。
毎日誰かと会って話をしていた。日々はずっとワクワクしていて、面白いことばかりだった。誰かと共通の話題について話すのはとても楽しかったし、大好きな友達と一緒にいる時間は何よりも宝物だった。

しかしこの頃から、言いようのない寂しさや苦しさを感じるようになっていた。自分がひどく孤独に感じたり、誰かと比べて今の自分もこれからの自分もダメなように感じてしまう。これが世間的に思春期特有のアイデンティティの形成や確立といわれていることを知るのはまだ先のことで、そんなこと知る由もない当時の私は、言葉にできない感情に時々打ちひしがれていた。

そんな私が息抜きにしていたのがやはり散歩である。普段一人になることがほとんどない中で、この時間だけが、私が私だけと向き合える時間だった。iPhoneからお気に入りの曲を流して、近所の川辺を散歩する。自分の脚でひたすら歩く。綺麗だと思った花や空の写真を撮る。
そうするとなんだか大丈夫になれる気がした。もちろんモヤモヤした気持ちの理由や答えは出たりしないのだが、本当に大丈夫になった気がした。私は散歩に救われていたのだ。

中学生の頃に撮った写真
この頃はこういう加工が好きだった


中学三年生で祖父が亡くなった時は、人生で一番散歩をしたと思う。半年くらいの間、毎晩大泣きして寝不足のまま学校に行って放課後塾に行く…その隙間を縫うようにたくさん散歩した。優しい空をたくさん撮ったと思う。歩きながら祖父のことを考えて、思い出して、また少し寂しくなって、歩く。そんなことを繰り返していた。そして、そうしていくたび段々と「大丈夫」になって、祖父のことを苦しくなく思い出せるようになっていった。私はまた散歩に救われたのである。

高校生になってからも散歩は私にとって大事なものだった。この頃には暮らしや建物を観察することも好きになり、散歩にも新たな楽しみが加わっていた。心がモヤモヤしていなくても散歩をするようになった。加えて、人と散歩をするとその人の心がよく見えるということに気づいてから、誰かと散歩をすることも凄く好きにになった。
鳥の声を聞きながらその主を当てたり、どの屋根が好きか話したり、綺麗だと思う景色を写真に収めて見せ合ったり、普段教室で話すだけではわからないようなその子の心が見えてきて、とても素敵な時間だった。

人生で辛かったこと堂々一位の出来事が起きた時も、私は歩いた。時には一人で、時には誰かと、歩いた。悩んでいる時も悩んでいない時も、歩いた。高校から自宅までかなりの距離があったが歩いて帰ることも何度もあった。散歩をするとなんだかまだまだやれる気がした。

高校生の頃撮った写真

久々にnoteを更新するにあたって私の好きなことについて書こうと思い、最初に思い浮かんだのが散歩だった。
最近、チロとする散歩がすごく幸せだと感じる。知らない街を散歩する面白さも知った。歩くと健康に良い…というのも20歳を超えて意識するようになった。
何かの楽しみ方や感じ方、捉え方は年を取るたび変わって面白い。
これからも私はきっと、散歩に救われながら、まだ知らない街を歩き続けるのだろう。

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