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名もなき渓流

1993年5月3日、池田先生にお手紙をお出しし、自分が同性愛者であることをお伝えしたところ、

「お手紙拝見しました。健康を祈っています。また見守っています。頑張ってください」

とのご伝言とともに、お数珠を勿体なくもいただいた。

生まれて初めてのカムアウト。私が初めて真に人間として認知された瞬間だった。

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1998年4月8日。

1人の学生が

「人間教育の最高学府たれ」
「新しき大文化建設の揺籃たれ」
「人類の平和を守るフォートレスたれ」

との恩師の建学の精神を胸に、何度も逡巡し、熟考して、自身の実名を掲げて、大学の新聞に同性愛者としての苦衷や「府中青年の家」裁判の人権闘争など、第2面をほぼ全て割いて、多岐にわたって真実一路、書き綴った。

新聞発刊の翌日、恩師の庶務を司る人物の命で、新聞は全て破棄された。

学生は咎められ、去っていった。

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私の通った公立小学校では、核兵器の恐ろしさや残虐さ、強制連行や大陸での蛮行、沖縄戦、空襲や敗戦の悲惨さの史実を伝えんと、

コピー機などない時代、労を惜しまず、ガリ版印刷で作られたプリントが何枚も何枚も配られた。

知的障がいのあるクラスメイトがいたが、いじめを絶対許さない教師だった。クラスで話し合いの場を設け、生徒を守った。

全員が走るクラス対抗リレーで、筋ジストロフィー症と戦う友人が、徒競走で他の走者が全員走り終わった後も、数分かけてゴールを目指し力走するのを、クラスのみんなで、惜しみなく応援したのが忘れられない。

中学・高校は体育祭に熱狂。

どんなに練習試合で負けても、
全身全霊を尽くして、
最後は絶対勝つと
みんなが信じていた。

戦うとはそういうこと。

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学生部時代は、学内サークルで、アパルトヘイト撤廃のため、壮絶な戦いを繰り広げていたANC(アフリカ民族会議)の方をお招きして講演を行った。

エイズパニックが起きたときは、薬害訴訟の関係者や同性愛者向けの雑誌の編集長をお招きして講演を行った。

新進気鋭で
人間性豊かなサークルの朋友。

手弁当で育ててくれた
近所の名もなき無冠の英雄。

真摯に宿命と使命に向き合う。
そんな気高き
善知識に恵まれていた。

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学生部時代、重度の知的障がいを抱えたお子さんを、女手一つで育てていた女性部の方に、大変お世話になっていたが、我が子を慈しむ様は神々しかった。

「題目を10時間、夜中までずっとあげてたら、御本尊様がしゃべったのよ」
と確信に満ちた嬉々とした表情で、私たち学生に語ってくださったことが忘れられない。

そう確信できるほど真剣に、境智冥合の深き祈りを捧げたことが、自分にあっただろうか。

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1990年代、震えるような思いで、勇気を振り絞って、同志に少しずつカムアウトをした。

「自殺したら、俺、葬式いかないですよ」

後輩の不器用な鼓舞する言葉が、
惰弱な私の生命につき刺さった。

大好きだった学内の卒業生部員会には出席しなかった。戦友に朗らかに御礼の挨拶をするような心境ではなかった。

拠点があり、卒業生部員会が開催された建物の中を、私の所在を探す後輩の声が聞こえたが、

私は別棟の一室で、マイノリティとして生きる苦衷と決意を綴った文章を学内の文集に掲載するため、遺言のような想いで一心不乱に書いていた。

原稿が一部配慮に欠け、稚拙だったこともあり、文集への掲載はやめるように、全国学生部長から電話がかかってきたが、どなたかが尽力してくださったおかげで掲載された。

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大学3年の時だったか、御書を引用して、
「同性愛は立正安国論に書かれている風俗の乱れにあたる。一緒に祈って治そう。先生も治すべきものだとおっしゃっている」
(後日、先生は2001年から全米のLGBTの年次総会にメッセージを送られていることを知った。)

「カムアウトをすると組織の秩序が乱れる。また週刊誌に利用され、面白おかしく書かれたらどうするのか」
などと本部職員に指導された。

「週刊誌に書かれ誹謗中傷されたら、そういう時こそ、全力で当事者を守り、戦うのが本部の役目であり、学会精神ではないのか」と叫びたかった。

いつも忖度を強要されるのは、
差別される当事者ばかり。

このような指導を受けたのは、
私だけではない。

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深刻な鬱になり、
夢を失った。
沢山のものを失った。
何度も自分を傷つけた。
精神を10年以上病んだ。

仕事は思い描いていたものとはかけ離れ、私は業界の中でもブラックとされる職場で働いている。

私も含め、歳月は中途半端な贋物を淘汰した。

傷が癒えることは諦めよう。
傷こそが私自身の一部。
それを認めないのは
自己否定そのもの。
梅桜桃李を否定することだから。

かつて、
私はトランスジェンダーの
後輩に語った。
「人の仏性を讃嘆していこう」

それこそが自分自身の仏性を
顕現させること。

何度も死魔・病魔に襲われて
何度も忘れかけてしまうが、
絶望してる暇があったら、
対話を諦め、逃げてる暇があったら、
声をあげ続け、戦おう。

いつだって、
正義の声をあげ続けた人はいる。
血まみれになって戦う人、
我関せずと傍観する人、
同苦し、力強く支えてくれる人。
いつだって、様々な人がいる。

全身全霊を賭けて、師匠にお応えせんと、広宣流布のために戦う同志や職員。
支援者に全力で応えようと戦う公明党議員。

時代は少しずつ良くなってると信じたい。棚ぼたを期待するような人に依存した随他意の生き方とは訣別し、自律した信仰者にならなければと思う。

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あれは確か2001年の
参議院選挙のときのこと。

「大衆とともに」を立党精神にかかげる党が、同性愛者が教員、公務員、自衛官になることについて、差別的な回答をした。

当事者が抗議したところ、師匠から当事者の話を聞くように御伝言があり、回答が修正された。

時世がどうであれ、真摯に話し合えば、小さな声であっても耳を傾け、政策に反映させようと奮闘してくださるのが公明党の素晴らしいところである。

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池田先生は1993年秋の首都圏学生部幹部会で次の5つの基本方針を発表され、後継の弟子に託された。

「21世紀の平和思想の指導者に」
「21世紀の人権を守る闘士に」
「民衆と共に、知性と正義の灯台に」
「語学を修練し、世界100ヵ国の青年・学生と交流・親善を」
「世界1000大学の学生の学術・文化の連帯」

登壇した学生部幹部は繰り返しこの基本方針に言及した。しかしまさにこの基本方針が発表された会合で、ある幹部が、「イギリスの同性愛者のSGIメンバーを迎えることになったが、襲われないか心配だったよ」と発言し、首都圏学生部幹部会は哄笑でドッと沸いた。

私は人権感覚の最先端をいくべき、先駆の学生部がこのような状態では、創価学会において、同性愛者への差別や嘲笑が「21世紀の人権」問題として扱われることは当分あり得ないと思い、悄然とした。

周囲にあわせて一緒に笑っている自分が情けなかった。世界で最も暖かい人間集団であるべき創価学会に、(1993年当時は)自分自身の人間としての尊厳が認められていない。そのような暗澹たる思いにかられ、自殺をより頻繁に考えるようになった。

1993年10月15日、池田先生の参加される会合に初めて参加させていただく機会があった。前から3列目だった。

実証をもって歓喜して集った人々の中で、精神を病み生気をなくした私はさぞかし目立ったことと思う。

スピーチの最中、何度も自分の方に目線を送ってくださっているように感じられた。峻厳な眼差しであった。

池田先生はスピーチを終えて退場されるとき、前方の我々青年部に向かって「色々嫌なことをいう幹部がいるかもしれないけれど、気にしてはならない」「とにかく何があっても創価学会についてくれば大丈夫だから」と指導され、悠然と会場を後にされた。

私の永遠の指針・原点となった。

数分後、「池田先生のお計らいで、今日の会合の出席者全員を金板に残すことになりました」とのアナウンスが入った。

学生部の基本方針が発表されて、30年。

自民党と袂をわかち、公明党が賛成して渋谷区で初めてパートナーシップ宣誓制度を盛り込んだ条例ができた。聖教新聞でLGBTQ+のメンバーの体験談が紹介されるようになった。組織の最前線で戦うLGBTQ+の戦友もできた。まさに隔世の感がある。

学生部の5つの基本方針を発表された師匠の後継への万感の思いに、少しでもお応えできる自分になりたい。

平和主義。
人間主義。
平等大慧。
桜梅桃李。
自体顕照。
妙とは蘇生の義なり。

今はこの確たる生命哲学を
末法濁世に広めるのみ。


2024年4月24日、記す。

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