私の履歴書③両親へのカムアウトその2

(私の履歴書②の続き)

白壁の小奇麗な待合室で
待たされている間、
私は手持無沙汰で、
差し込む光があやなす陰影を
心持なくながめていた。


「お父さん、これは病気ではありませんので‥‥」


二人が呼ばれた
狭いカウンセリングルームに
医師の声が響いた。


「そうですか‥‥」


父は短くただそういって、
私たちは西新宿の病院を後にした。

その日の西新宿の空は雲一つなく、
そびえるビル群の果てに輝く空は
どこまでも高く、
どこまでも蒼かった。

昼下がりで、
きっと、普通に
沢山の人が西新宿の街を
歩いていたと思うが、
デフォルメされて覚えているのは
なぜか街がやけに静かで
とにかく空が澄みわたっていたこと。
そして、いつの間にか
少し小さくなった父の姿態。

医師の「宣告」を受けても
父はいつものように穏やかで、
私たちは話すでもなく
気まずいでもなく
一緒に新宿駅へと向かった。


母を和室に呼び出して
カムアウトしたとき

「それでも、あなたのことを愛していることは変わらない」

母は涙ながらいってくれた。


父に直接いう勇気は
当時の私にはなく
母の判断に任せようと思った。

母はそのあとすぐに
父に話したようだが
両親の寝室で
実際どんなやりとりが
あったかはわからない。

薬剤師の母と
医療機器の技師の父が
出した結論は

「お父さんの知り合いに精神科医がいるから、一緒にいってみよう。ひょっとしたら治るかもしれない」

‥‥というものだった。

いまから25年程前のことで、

日本精神神経医学会が
WHOにならって、
性的指向が
治癒の対象とならないという
ガイドラインを出したのは、
私が父と病院を訪ねた
頃のことだった。

東大の生協で
著名な心理学者の本を立ち読みすれば
「同性愛は異常性欲」
と弾劾され、
民法の家族法の権威も
性を染色体という角度のみからしか
考察せず、
象牙の塔の
厚顔無恥なアカデミズムは
自己肯定の心の糧を
求めさまよう学生を
容赦なく打ちのめした。

そんな時代だったから、
両親の出した結論に
私はあらがわなかった。

病院にいったって
治ることなんてない。

治るくらいなら
誰も自分の性的指向を苦にして
自殺なんかしないし、
海外で人が性的指向を理由に
殺されることもない。

でもそれで親の気が
少しでも済むなら‥

定年を過ぎた父が
精神科医から受けた
「治らない」という簡潔な宣告を
どのように受け止めたのか
本当のところはわからなかったが、
父もどこかで心の準備が
きっとあったと思う。

田舎の農家の育ちの父のことだから、
カムアウトしたら
激しい拒否感や嫌悪感を
示すに違いないと
あれだけ慄(おのの)いていたのに、
母はもちろんのこと、
父が私に当たり散らしたり、
暴言を吐いたことは
ただの一度もなかった。

父の若き日‥‥
父の在りし日‥‥

こんなに一緒にいたのに
当時の私は
ほとんど何も知らなかった。

知らないのに
知っている気になって
すっかりわかった気になって
見えない幻影に
恐れ怯えていた。

両親と仲睦まじく
何でも話せるようになった今だって
親のことなんて
そんなにはきっと
わかってあげられていない。

NHKの内定が決まりかけた時に、
健康診断で結核の宣告を受け、
別の道を
模索しなければならなかった父。

医療技師として
腕を鳴らし始めたのもつかの間
今度はベイチェット病を宣告され、
幸い病の進行が非常に遅く
無欲に働き詰めて
二人の子供を大学に送り出し、
定年を迎え
ようやく子育ても
終わったと思った時に

妻から聞かされた
息子のカミングアウト。

家族でテレビをみていて
キスシーンがあると
チャンネルをさりげなく変えたり
おすぎやピーコが出ると母が
「気持ちが悪いから、他の番組に変えて!」
というような、
そんなごく普通の
田舎の古い家庭だった。

だから両親に
生理的な嫌悪感があったことは
間違いないと思うが

「同性愛のことがわかる、何かいい本はない?」
と母にいわれ

「同性愛の基礎知識」
という漫画が織り交ぜられた、
すごくわかりやすい
解説本を母に渡した。

その本には
当たり前のことだけど
息子がゲイになったのは
育て方が悪かったからとかではない
といったことも書かれていた。

学生時代の仲間への
カムアウトをはじめてから5年。

親へのカムアウトを済ませて
私は初めて
自分と同じゲイの知り合いや恋人を
つくるための具体的な行動に
ようやく出た。

そうやって少しずつ
「普通に生きる」
ゲイの人たちに触れて
自己肯定できるようになっていった。

普通は誰かに
カミングアウトするとしても、

LGBTQの知人が出来て
自己肯定できてから
という人が多いと思うが、
自分の場合は真逆だった。

当時あったLGBTQ関連の雑誌を
勇気を振り絞って買って、
初めて出した
恋人募集の自分の投稿文。

「サン・テクジュペリの言葉に『愛するとは、たがいに見つめあうことではなく、ともに同じ方向を見ることだ』とあります。この考えに共感する人、よかったらお手紙ください」

‥‥確かこんな感じだったと思う。
(う~む、かっこ悪い)

セックスアピールばかりが
目立つ中で
こんな投稿文では
浮きまくるのはわかっていたが、
カムアウトした
友達や後輩、親に対して
後ろめたくない振る舞いを
少しでもしたいという思いが
当時は強く、
若気のいたりで
今以上にすごく頭が硬かった。

さすがに親には
雑誌は見せなかったが

「ゲイの友達や恋人を作るために手紙が色々来るかもしれないけど気にしないで」
みたいなことは母には伝えていた。

カムアウトをしたからといって
その話題について
すぐに気軽に食卓で
気軽に話せるようになったわけでは
無論ない。

母に渡した「同性愛の基礎知識」を
父が読んだかもわからない。

母だって、
特に感想は言わなかったと思う。

それでも少しずつ
母とは同性愛のことを
話せるようになったが、
父とは精神科医に
一緒に行って以来
自分の性的指向については
相変わらず
ほとんど会話しなかったと思う。


ある日、帰宅して
自分の部屋に戻ると
部屋のドアの前に
新聞の切り抜きが
数枚置いてあった。


「苦悩する同性愛者たち」

読売新聞の連載記事だった。

「〇〇さん(仮名)は‥‥」

「お母さん、切り抜きが置いてあったけど、あれ何?」
「お父さんが切り抜いてくれたのよ」
「そうなんだ」


今なら
「気にかけてくれて、父さん、本当にありがとう」
とか、気の利いた感謝の言葉を
父にきちんと伝えることが
できると思うが、
当時は特に父には何も伝えず、
父も私に何も言わなかった。

息子がゲイであることを
知らされた失意を超えた
父の優しい気遣い。
それをさりげなく息子に
伝えようとする母の機智。

そうやって私たち親子は
少しずつ、少しずつ
時間をかけて
歩み寄っていった。

それから数年後、
6年間交際した彼氏がいた時は
毎年、正月に実家に
彼氏を連れて帰り、
父母と4人で
仲良くおせちを囲んだ。

毎年、彼氏の誕生日には
両親がマスクメロンを
贈ってくれた。

母は友達に
「うちのヒカルにもようやく彼氏ができたのよ」
と井戸端会議で報告できるほど
いつの間にかふっきれていた

随分たって母に涼しい顔で
「お父さんにヒカルにカムアウトされたことを話したら、結構ひどいことを言ったんだけど、お兄ちゃんが味方してくれたのよ。」

「『ヒカルはヒカルで何も変わらないんだからいいじゃないか』って。でもちゃんと受け止められるようになるまで半年ぐらいかかったかな‥」
といわれた。


もうすぐ桜花爛漫の季節。

今年は実家で家族と花見をして
「あの時本当はどう思ったの?」
「どんな葛藤があった?」
「お父さんとお母さんの若いころはどんな感じだったの?」

美味しい食べ物をほおばりながら
そんな話をのんびり語らえたらと思う。





*****************

能登半島地震から2ヶ月がたち
連日のように放映される
ニュースに
否応なく涙が流れてきます。

個人の力をはるかに超えた
あまりにも大きな人生の波濤に
いまだ多くの方が直面している中

今の自分ができることは
当時の世相や
無気力や自暴自棄にあらがって
自分がどう立ち向かったか、

そのささやかな一個人の歴史を
つづることなのではないかと思って
掲載させていただきました。

亡くなられた方のご冥福とともに
我が身、わが心を砕いて
愛する人や故郷のために
復興に尽力される皆様のご健勝を
改めてお祈り申し上げます。

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