私の履歴書①大切な後輩へのカムアウト

30年近くたった今でも
はっきり覚えている。


風呂トイレなし
家賃3万円の
電気の消えた真っ暗な部屋に
一筋の月明かりが差し込んでいたこと。


東京の初夏の蒼白い儚げな夜空。
明滅する留守電の赤いランプの残像。


確かあれは、春の大学祭が終わって、
ほっと一息ついた頃じゃなかったかと思う。


仲が良くって、
お互いすごく信頼しあっていた
大学の創価学会のサークルの後輩に

「すごく大事な話があるんだ。サシで飲まない?」

と誘った。


自分から誘ったくせに、
いざとなるとやっぱり中々切り出せず、

当時、後輩が住んでいた、
市ヶ谷のさびれた居酒屋に入って、
飲み食いしながら、
他愛もないよもやま話で
お茶を濁していたら、
あっという間に
ラストオーダの時間に。


「ヒカルさん、大事な話って、一体なんですか?」

「うん、もう少し飲んだら、ちゃんと話すから‥」

「そんなに飲まなきゃ、言えないような話なんですか?(笑)」


結局、閉店まで切り出すことができず、
店を出て、駅の近くのお堀端の公園に移動した。


終電の時刻が迫っていた。

月影を宿した後輩が、
うつむき加減な、
ただならぬ自分の様相に、
何を切り出すのだろうと
神妙に私を見つめている。

ついに腹をくくり意を決して
訥々とだけど
無我夢中で語り始めた。


「あのさ、俺‥‥」

黙ってじっと
聴いてくれている後輩の顔を、
最後まで直視することはできなかった。


後輩への初めてのカミングアウト。

今なら
もっと冷静に
もっと相手の気持ちを考えながら、
もっと筋道を立てて
話せると思うけど、

当時はまだ
そんな度量も器量もなかった。

居酒屋でじりじりと
時間が過ぎたのが嘘のように、
時がたつは早かった。

語るだけ語って、

「あ、もう終電の時間だ!
今日は聞いてくれて本当にありがとう。
ばたばたでホント申し訳ないけど、
じゃあ、またな。おやすみ!」

‥‥みたいなことを
気ぜわしく後輩にいって、
逃げるように改札に向かって走り、
電車に飛び乗った。


あいつはどう思っただろう‥‥
明日から絶縁されたらどうしよう‥‥

帰途、いろんな思いが
ぐるぐる去来しながら
独り暮らしのボロアパートに帰宅した。


2階にある6畳一間の部屋の
ドアを開けると、
南に面した窓から
真っ暗な部屋に
月明かりが差し込んでいた。


留守電があることを示す
電話機の赤いランプが
淡く光っていて
恐る恐る再生ボタンを押すと

さっきまで一緒だった後輩の声が
真夜中の部屋に静かに響いた。


「ヒカルさん、さっきは話してくれてありがとうございました。信じてくれてありがとうございます。自分は変わりません。そんなことではもう悩まないでくださいね」


部屋の電気をつけるのも忘れて
何度も何度も
その留守電を聞きなおし

何回も何回も
彼の言葉をかみしめた。



大学の創価学会のサークルでは、
公民権運動や
アパルトヘイト撤廃の戦いに
ついて学んだり、

AIDSパニックの中で、
薬害で理不尽極まる非道な扱いを受けて
苦しむ人たちに寄り添ったり、

心の病を取り上げたりと、

みんな学生で未熟で荒削りな部分が
沢山あったけど、
とにかく人間的に暖かかった。


私は保育園の頃から
自分がゲイであることはわかっていて、
このことは一生誰にも語るまいと
決めてきたけど、

喜怒哀楽を分かち合おうとする
人間臭い創価学会の人たちに囲まれて
生活をする中で、
自分の幼いころからの信念が
激しく揺さぶられた。


カムアウトすることで
聴いてくれた相手を悩ませたり
不快感を与えてしまうかもしれない。


いろんな不安や懸念が
とめどなく湧き上がってきたけど、

でも何より自分は、

自分を信じてくれる人には
その人を信じることで応えたかった。


カムアウトの是非については
いうまでもなく
様々な考え方や見解があり
状況も人それぞれで、
千差万様、余りに異なる中で

受容され成功した事例もあれば
拒絶され絶縁されたといった
痛ましい悲劇もある。



時は1990年代初頭。

ベルリンの壁が崩れて冷戦が終結し
韓国、台湾、フィリピン、カンボジア、南米‥‥
世界的な民主化の潮流と
さらなる混乱のなかで、

時代が人を創り
人が時代を創ることを
肌身で知った。


詰まる所、大切なのは
みんながどうかではなくて
自分はどうしたいか
自分はどう生きたいのかということ。


自分自身を直視する
勇気もった信念の人が
身の回りの人との関係、
さらには地域や時流との関係を
再構築していくのだと思う。


そのことを
創価学会の学生部の友と
一緒に学び、暮らす中で
折に触れ、否応なく
痛感させられてきた。


自分が尊敬する先輩がかつて
日蓮大聖人の至言を通して諭してくれた。

「たとえ1万年間、ずっと暗かったような所だって、灯りをともせば、明るくすることができる」


ずっと諦めていた
自分の胸中の闇に

暗中模索しながら
灯りをともそうと
もがき始めて20年余り。


私が勇気を出して放った弱々しい炎を
吹き消すことも
せせら笑うこともなく
陰ながらじっと見守ってくれた後輩。


この後、少しずつ一人一人に
カムアウトを続けたけど、

数十人の後輩が同じように、
私のカムアウトを受けいれてくれ、
カムアウトを機に
人間関係が崩れたことは、
幸い、ただの一度もなかった

当時、私はホモホヴィアが強く
深い罪の意識にとらわれていたため
中々自己肯定ができず、

飲みに出たり、
他のゲイの人と接する機会も
全くなかった。

そんな自分のカムアウトを
真摯に受け入れてくれた後輩たちには
感謝してもしきれない。

彼らがいたからこそ
私は自分のセクシュアリティを、
自分自身というものを、
受容できるようになれた。

彼らがいたからこそ、

この後輩に話してから約2年後、
親にカムアウトすることができ、

時間は少しかかったけど
家族に理解してもらうことが
できたのだと思う。

今の円満な家族関係はすべて
苦楽や夢を分かち合いながら
不器用に一緒に生きてきた
創価学会の後輩たちの
おかげだと思っている。


2012年2月12日
(2024年2月6日加筆)
報恩の気持ちを込めて






様々な考えがあることを
テーマに据えて書くのは
勇気がいりますが、

最近いろんな方から
カムアウトに対する周囲の反応とか、
どういう心境でしたのかといったことを
聞かれることが非常に多く、

やはりこのことで悩んでいる人は
まだまだ多いんだなと、
あらためて実感させられて、
思い切って書いてみました。


言うまでもなく
カムアウトを美化したり
推奨することが目的なのでは
全くありません。

話すリスク
隠し続けるリスク

話す優しさ
隠す優しさ

それぞれあって
状況は個々人で
本当に様々だと思います。

ここでは単純に
自分の場合はどうだったかということを

親にいったときのことなどを例に
今後、綴っていけたらと思っています。


長文を読んでくださって
本当にありがとうございました。

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