世界一の嫌われ漫才師・ウーマンラッシュアワー・村本大輔への「営業妨害」

さて、今年も「THE MANZAI」で、ウーマンラッシュアワー村本大輔(以下村本)による「独演会」(なんか"毒"演会って書くとそれっぽいけど悔しいのでやらないw)があったわけだが、まあ感想は真っ二つでした。

否定派、肯定派ともに見るべきものは何もなかったし、誰もちゃんと見れてる人がいなかったんですけどね。

<はじめに>

そもそも、「お笑いを分析し評価する」っていうのが、本人の芸風の妨げになるんで、そういうことは専門家のラリー遠田さんに投げて、私は指差して笑ってるだけ、ってのにしたいんですが、なんせ相手が「日本一嫌われている芸人」の村本なので、私が何を正しく書こうが、どうせ誰も読みやしないんで、ちゃんと「村本が芸風としてのシニカルな笑いを確立させた」という証拠として、この文章を残しておこうかと思った次第です。

言うまでもなく、ここから先の文章は、「世界一嫌われている芸人」の村本を、個人的に、正しく評価し、世の中の誤解を解く…わけではなく、わかってない人間に優越感を抱くために作った文章ですので、そういうのがお嫌いな人はさっさとネトウヨだのパヨクだの、罵り合ってください。

ではスタート。

<政治的主張のない政治的漫才>

まず、大きな誤解をしているのが、村本は「今回」「政治的な主張を」「全くしていない」ところである。

「今回」と書いたのは、前回までは反原発の立場であったり、政権批判であったり、そういうのを、正誤や好みはともかくとして、シニカルに、彼なりの主張をもって述べていたところはあった。

ただ、多くの人間は彼が「桜を見る会の話でもしましょうかね」といったところ(あるいは言い出す前)から、何一つ聞きもせず、情報をシャットダウンしていたので気づいていないと思うが、彼が「桜を見る会」について言及したところは

「公文書を消去した公務員がいた」

というところだけである。それが隠蔽であることどころか、「いけないこと」であるとも一言も言ってないのだ。

これが、今回最初に「お、いつもの村本と違う」と思ったところだった。

その後村本は、桜を見る会について、状況をどんどんと説明する。
そして「安倍政権について書けば、自分に誹謗中傷が飛んでくる」とつなげるのだが、

ここでも「安倍政権にどのような批判をしたか」は主張していない。

このあとの展開を(ちゃんと見ていた人ならばできるだろうが)思い出すと、ここで政治的主張をする必要はまったくなく、

「公文書を消去した公務員がいた」
「自分に誹謗中傷が飛んできた」

ここだけで、この話のオチは成立するわけである。
村本は、ちゃんと考えて「笑い」を組み立てているのだ。

<負け犬>

話は進む。「自分への誹謗中傷がひどいのでツイッターのアカウントを削除した」という。ここで初めて「公文書を消した官僚を批判せず」と、若干の政治的主張をしているが、これはもうタダの「言葉狩り」であろう。
これで「まるで俺が公文書を削除した官僚を支持してるといいやがったな」なんて言おうものなら、言ったほうが負けである。そんな敏感に反応してどうするんですかw

「公文書を消した官僚を批判せず、ツイッターを消した俺を批判する」

これ、ダブルスタンダードと見せかけて、実は全然対比できていない。是非や真実はともかく、公文書といち芸人のツイッターアカウントを並列させようが、その価値は雲泥の差がある。
しかし、ここで村本は嘯くのだ

「俺のツイッターアカウントは公文書の上だ!」

これで「そうだそうだ」なんて言うやつは頭がおかしいし、「それで?」なんていうやつはもっと頭がおかしい。そんなもの、言った村本すら「それで?」って感じである。
村本は、自分が「客から蔑まれている人間」であることを逆手に取ったのだ。

負け犬の遠吠えである。

だから、負け犬の自分が嘯くことで、初めて「ツイッターアカウントが公文書より上だ」が、笑いに変わるのである。

<アメリカンコメディー>

これはアメリカのコメディアンがよくやる主張である。自分が芸人で、政治的立場のある人よりもより下賤な存在であるという認識から、上から政治色を含んだ笑いを取りに行く…という、正しいコメディーの形だ。
正直、これができるぐらいまで村本が勉強し、研鑽してきたとは思っていなかったので、ここで「自分を負け犬にして笑いを取るなんてこと」ができたときに、ものすごく感動をしてしまった。

後にも先にも、村本で感動するのはこれっきりだろう。

日本でこの存在に近いのはオカマバーのオカマなのだが、それは村本とは外れた話になるので深くは掘り下げない。少なくとも、「漫才を借りて政治的な主張をする胡散臭いおっさん」から、彼は「自分を負け犬にして笑いを取るコメディアン」になったのだ

<ジャパニーズマンザイ>

話は続き、後段の「いらないもの」の話になる。ここでも「原発被災地」の話になるが、原発政策に対する批判は一つもない。ただの「被災地にいらないもの」の話をするために引き合いに出しただけだ。別に豪雨災害であろうが、地震災害であろうが、そこは全く変わらなかっただろう。

個人的には「千羽鶴に込められた想いを踏みにじる」と思っているので、千羽鶴作りは否定しないのだが、まあそこは「私の政治的主張」なのでどうでもいい話だし、多分現場が困るというのは事実なので置いておく。
まあこの「千羽鶴」すら、次の「お面」の話へのブリッジにすぎないのだが。

ここまで読んだ人はお気づきと思うが、村本の主張はすべて「オチのための布石」に過ぎない。そこに意志はあれど、それによって何かを述べるということはない。

そして、この「お面」を使い、「向こうでいらないものはこっちでもいらない」と「フリ」をつくる。ここがいかにも「漫才」である。

<村本の矜持>

しかし、自分を負け犬に置いても、政治的な主張をせず、ただの政治的漫才に持ってきた中でも、彼が特に「それでも」と主張したのが、この次の「嫌なものから目を背けて手に入れる平和な日本」というものである。

ここの村本だけが、「笑いをすてた政治的主張」を行うのだ。

これに関して「好き」「嫌い」「正しい」「間違っている」を論じることは正しいし、それは大いにすべきだが、残念なことに、ここに対して「政治的スタンスを取って論じること」に触れているアカウントはほとんどなかった

だが、これすらも村本には「フリ」であって、「こんなことを言い出すなら日本を出ていけと言われる」と展開し、最後に「向こうでいらないものはこっちでもいらない」と「天丼」で落とすのだ。

これも「負け犬」だからこういう笑いになる。政治的主張で嫌われることを逆手に取った見事なオチだ。これも「そのとおり」とか「だから何?」とか言ったら、そこで完全に敗北している。彼の笑いを構造的に理解できていないのだ。

ただ、それにしても、村本はこの「嫌なものから目を背けて手に入れる平和な日本」という皮肉に、相当なメッセージを込めたことは疑いない。

<中川パラダイスと漫才の是非>

「中川パラダイスいらんやん」「これは漫才か?」という主張は少なくない。たしかに中川パラダイスは煽るだけだし、舞台上で彼がいなくても何も問題ないのはそのとおりである。

だが、「じゃあ一人でやれ」というつもりもない。

頭のある人間が、ちょっと考えて「ギャラを独り占めできる村本」の出演と、「ウーマンラッシュアワーとして中川パラダイスと共に舞台に上がる」ことを天秤にかけて、どっちが得かなど考えるまでもないだろう。

村本は、そう言われるのをちゃんとわかってて、中川パラダイスと共に舞台に上がっているのである。
それは中川パラダイスに何かの働きを期待しているわけでもない
最後のインタビューで「1年分のガヤ」みたいなことを言っていたが、あれは「中川パラダイスに対する、村本なりのエクスキューズ」なのだ。

コンビを解散せずについてきてくれたこと。
このネタ以外のネタで協力してもらっていること。
そういうこと一切にたいする、1年分の村本なりの「感謝」なのだ。

演歌は、かつて「演説歌」といわれ、文字通り「演説を歌にしたもの」であった。
言葉と意味が乖離し、現在の演歌に演説の要素はない
それと同様、一人で喋り倒すものに対し「漫才」の名をつけることに好意的な人間は少ない。
しかし、それはタダの言葉の話であり、その主張をするものに「お前の左翼的態度が気に入らない」以上の意味を見出すことが、私にはできなかった
結局ただのやっかみであり、私から見れば、あれはコメディーであり、かれはコメディアンである。

だが、村本のスタイルが漫才か、漫才でないか、などはどうでもいい。漫才を名乗るおかげで、中川パラダイスにギャラがでるのだから。

<村本の進化>

しかし、先日のネタは格段の進歩であった。政治をモチーフにしながら、政治的な主張をほとんど行わず、いいにくいことをいいながらも、自身を負け犬にすることで笑いを取りに行く。
まさに、アメリカンスタイルの正統派コメディーだ。
去年までのいい加減な、それらのマネだったコメディーから脱却した、実に正しいお笑いであった。
村本は、いや、村本だからこそ、正当に進化をし、ここに至ったのだと思う。
村本の「毒演会」、次が本当に楽しみである…。

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