暁月のフィナーレ、ネタバレ感想

暁月の感想が解禁になったので完走した感想(※激ウマギャグ)を語っていくことにする。

FFはSF

まずいいたいのは「FGOのパクリ」なんじゃなくて、FGOもFF14も海外SFのオマージュだという話。FATEのタイトルがSFのパロだってのはなれた14テンパードの間では有名な話だと思ってるのだが、それに限らず織田万里かイシカワナツコか、あるいは他のスタッフかはわからないけども、開発に相当なレベルの海外SFマニアが混じってるんだよね。

そもそも海外、それも古典とされるSFのほとんどのテーマ「宇宙に与えられた人類(=命)の意味」なんだけど、その文脈をなぞると行き着くのはだいたいああいう話なわけですよ。私もそれほど読んだわけではないんだけど、さすがに途中に出てきたイーア族が「たったひとつの冴えたやりかた」に登場してたなあ、ってのは覚えてるわけですよ。

で、そのSFの普遍的な問いに対するファイナルファンタジー14の答えが、また美しいわけですよね。これはもう、織田万里、イシカワナツコ両氏に拍手を贈りたい。

全然余談なんだけど、古典SFの「宇宙と生命について」を考えるのに最も適したコンテンツは、多分「ステラリス」です。ステラリス、面白いですよ?

生に至る日常は、食事である

暁月のフィナーレにおける最大の敵は突き詰めれば「諦め」や「絶望」であった。この構図は明らかに「無敵の人」を意識しているのは言うまでもないと思うんだけど、その「無敵の人」に対するアンチテーゼが「日常」であったのはまた違った視点だったなあと思う。

暁月でやたらと出てくる「食事」のシーン。精一杯食べ物を美味しそうに描いて、食事と会話で仲間との時間を演出する。それが「仲間との親密度アップ」だと見る人もいるだろうけども、私はこの「日常感」ことが、「絶望」との対比であると思った。

シャーレアン大学の購買部クエストでもテーマになってるように、「激マズ食」を全面に押し出してるのもそれだろう。賢人パンなんか「栄養を重視して味は度外視」ってしてるのも同じもので、「食事はただの栄養摂取ではない」ってのを強調するために、シャーレアンの飯激マズ設定が生み出されているのは間違いないと思う。

昔、「ワンダービートスクランブル」というアニメがあった。原作は手塚治虫なのだが、人体のふしぎを扱いながら異星人との戦い・交流を描くものなのだが、これにも似たような話が出てくる。

ビジュール人という異星人は、食事をすべて錠剤(カプセルだったかな?)で摂取するため、食事という概念が存在しない。とある事件で人類側の捕虜っぽくなったビジュール人が、人間が食事をするシーンで「食事は栄養摂取には非効率的である。意味がわからない」的な反応を示すが、その後主人公たちが食事でキャッキャワイワイしながら交流する姿に「食事には栄養摂取以外の意味があるのだ」と理解する…的なものがあった。

このシーンが、年端も行かぬ私にはとてもとても印象的で、以来食事はなるだけ楽しく取ることを心がけていた。

「サマーウォーズ」でも、食事は非常に大事なシーンとして組み込まれていたし、「日常」としての「食事」というものは、存外演出そのものとしてはありがちではあるのだが、それを「絶望」と反対側として出すというのは見事といえるのではないだろうか。

英雄譚の終焉

で、暁月一番のお気に入りキャラといえば、もちろん…

ニッダーナさんですよ。

え?エメトセルク?ヒュトロダエウス?いやいや、ニッダーナさんみたいないい女いないでしょ。聡明で、勇気があって、誰かのために頑張れる、まさに「勇気あるもの、勇者」ですよ。

この暁月のフィナーレでフィナーレを迎えたものの一つに「ヒカセン」があるんですよね。ヒカセンをヒカセンたらしめる力「超える力」。テンパードにならないこの力があることで、他の暁メンバーがピクニックしてる間に、蛮神退治にせっせと駆り出されるわけですよ。

それが、第一世界でテンパードを治療する方法を見つけ、暁月ではとうとう、ヒカセンの超える力と同等の力を持つ「龍鱗の護符」まで作っちゃいます。その後ほぼ同様どころか、広範囲にわたって効力を発揮する謎のラジオの登場で影が薄くなっちゃいますが、そんなことはどうでもいいのです。

ニッダーナさんは、知恵と工夫で、ヒカセンを不要にしたのです。

ヒカセンとは、第七霊災を乗り越えるための「憧れ」でした。名前も思い出せない英雄がいて、その姿に憧れ生きてきた人の行き着く先が、ついにヒカセンに追いついた瞬間です。それはすなわち、第七霊災から立ち直り、一歩を踏み出した瞬間でもあるのです。

新生からのサーガを、過去のものにしたのです。

人はもう大丈夫だ、ヴェーネス。

ハイデリン戦の選択肢より

この言葉は、私は「人々がヒカセン(=ハイデリン)を不要としたこと」を告げるものだったのではないか、と思うのです。暁月のフィナーレは、ヒカセンを不要とすることで、終わりを告げたわけですね。

そして、そのヒカセンの対比が「ヴァリス帝を無理やりガレマール帝国の象徴として背負わせた」存在である「アニマ」ではないのか、とも思うのです。

必要とされていたが必要なくなったヒカセンと、必要とされなくなったが無理やり必要なものにさせたアニマとの対比が、地上における最後のIDバトルだというのは、なかなか面白い対比ではないかと思います。

クリスタルタワーは便利な道具

第八霊災の起こった遠い遠い未来から、アレキサンダーの技術を使って過去の第一世界へと戻し、統合そのものを阻止するという荒業をつかった漆黒のヴィランズ。

この時に未来が分岐して「第八霊災の起こらない未来」ができたんですが、この「クリスタルタワー」という便利な道具が産まれたことで、もう一つ分岐した世界があるわけです。それが「ヒカセンが古代人と出会っていた過去」なのです。

このへんがちょっとややこしくて、未来分岐は起こったのに過去分岐が起こっていないように見えてるんですが、実は未来分岐が起こった時点で、過去も書き換えられているわけですね。だからエーテルの海に溶けていないエリディブスが、ヒカセンと過去の繋がりを思い出せる、というわけです。

そう考えると、黒薔薇を使ったゼノスが、間接的にとはいえ世界を救ったと言えなくもないような気がします。やっぱりゼノスはズッ友なのでは…?

まとめ

私は自分の命を「この世で一番どうでもいいもの」だと思ってるんですが、どうでもいいものであることと「自分で終わらせること」同義ではないのです。やはり命は惜しいし、どうでもいいとおもっていても、死ぬことはできないわけです。

それは単に生きる意味を見出しているわけではなく、「死ぬための理由を見つけていない」だけなんですよね。メーティオンが真っ黒になるまで生きることに絶望したのは、死を惜しむ気持ちも、死を恐れる気持ちもなかったからではないか、と思うのです。

人も、哀しみにうちひしがれ、生きる意味を見いだせないときがあるとおもうんです。でも、生きる意味を見出そうとして見つからないと、やっぱりメーティオンのように黒くくすんでしまうと思うんですよ。

だから、それよりは、死を恐れた方がいいと思うのです。

死に、意味をもたせたほうがいいと思うのです。

ある女優さんの自殺に、だいぶこころが汚れて、何もできない自分を嘆いていたのですが、紅白歌合戦で、本当にたくさんの歌が、生きることを肯定して、死ぬ理由はないことを歌うのをみて、しばらくは心を折らずに歩いていけるようになりました。

FF14から「命の意味は?」と問われた答えに「死ぬための理由を見つけていないこと」と答えて、FF14の感想を締めくくりたいと思います。

そう、生きる理由はたくさんあるんです。「全部見てないから」ね…


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