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西田幾多郎の「純粋経験」


【純粋経験】

  西田幾多郎は、事実をそのまま知るためには、世界をありのままに感じなければならないとしました。西田哲学では、主観と客観の分かれる以前の根本的な経験のことを「純粋経験」と言います。純粋経験とは、主観と客観が、まだ区別されていない状態のことです。西田は、この純粋経験に注目しました。純粋経験は、知識による判断が入る前の状態です。その状態では、知識とその対象が、まだ未分化で合一しています。そのため、普段は意識しません。 

 【根底にあるもの】 

  純粋経験は、意識の直接的な経験のことです。幼児のような意識であり、自分を省みることをしりません。純粋経験は、無意識の活動であり、気がつかないうちに、日々それを実践しています。それをあえて言葉で表現したのが、純粋経験です。それは、無基底的基底として、あらゆるものの根底にあります。見に見えないが、日常の深いところにある一つの事実です。 

 【実在】 

  純粋経験でとらえたものこそが、実在です。実在は、純粋経験を通じてのみ経験されます。それは、知性だけではとらえられません。実在は、世界を有らしめている働きのことです。私たちの判断の入る前にも、それは働いています。実在は、単に考えられたものではありません。それは、現実そのままの実践です。複雑な世界も、現実の実践という一事実あるのみです。

 【思考】 

  知るということも一つの事実です。我々は、普段、思慮分別によって世界を認識しています。主観と客観の対立は、思考の側の要求です。主客の対立は、我々の思考の産物であり、それは純粋経験ではありません。純粋経験は、思慮分別による判断が加わる前の経験です。 

  我々は、世界を切り取って、言葉という枠に入れています。純粋経験とは、言葉で切り取られる前の状態です。もし、言葉で切り取られてしまったら、純粋経験ではなくなってしまいます。純粋経験とは、例えば「リンゴ」という言葉が出てくる前の、リンゴそのものを感じる精神作用です。 

 【障害】 

  純粋経験を妨げるさまざまな不純要素があります。例えば、価値観や世界観、思考習慣などです。それらが、純粋経験を覆い隠しています。私たちは、経験を積むと、物事を自分の価値基準で判断してしまいがちです。普段は、偏見や趣味嗜好によって世界を見ています。我々には、そうした思考習慣が身についているからです。人間の認識形式では、一度に全部の真理を見ることは出来きません。ある程度限定することによって、世界を見ることが出来るからです。 

 【東洋と西洋】 

  西洋文化は、論理的であり、東洋文化は、体験的と言われます。西洋哲学は、人間中心主義的であり、すべて人間のためになりがちです。西田は、西洋哲学の主客2元論の哲学を乗り越えようとしました。西田思想の根底には、自身の禅体験が影響しています。西洋哲学の影響を受けながらも、その根底には、東洋思想がありました。


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