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大乗仏教の「諸法無我」とは?

【諸法無我】 
 諸法無我とは、個別独立的な我を否定する考え方です。それは、仏教の根本思想の一つに数えられます。 「諸法」とは、全ての現象のことで「無我」は、我というものが、この世界から、個別に独立した存在ではないという意味です。我「自分」は、それ自体だけで成り立つものではなく、他のものとの関係性によって存在しています。そもそも、自分の心すら自分の思い通りにはならないものです。そのような状態では、自分自身のものと言えるものは何もありません。我は、環境などによって、変化するものです。そのため、常に同じ状態ではありません。

 【無常】 
 この世界は、絶えず移り変わる、流転のプロセスの中にあります。そのため、存在は、一瞬といえど、その同一性を保持することが出来ません。世界には、ただ生成と解体の繰り返しがあるだけです。それを仏教では、無常と言います。無常の世界には、最初の「根源」や、最終的な「終末」が存在しません。もし始原があるならば、その前がなければならず、また、最終的な終わりがあるなら、わざわざ生成する必要がないからです。あらゆるものは「全て仮のもの」として、無限の循環の中にあります。ただ、それぞれに各瞬間瞬間の出来事があるだけです。その出来事は、因果関係によって生じています。

 【縁起】
 大乗仏教では、世界は「縁起」によって成り立っているとされています。縁起とは、相互依存関係のことです。その関係性から、個別独立しているものは、何も存在していません。世界は、全体が相互に関連し、連続した統一体として生起しています。それは、静的な統一体ではなく、相互に変換される動的なものです。全ての出来事には、原因と結果があり、それらは相互に限定し合っています。それは、人間も例外ではありません。人間もまた、縁起の相互依存関係の一要因です。自分というも、必ず他人との関係性の中で成立しています。 

 【空】 
 個々のものに、実体や特性「相」がないことを「空」といいます。大乗仏教では、世界のあらゆるものに、それ自身の固有の本性を認めていません。固有性がないということは、世界には区別がないということです。それは、本来、あらゆるものは平等であることを意味しています。空とは、この世界から離れたところにあるものではなく、現象そのものの事です。世界は空なはずですが、自分の固定概念がそれを妨げています。
 その固定概念を生んでいるのが、人間の分別思考です。この分別思考が世界を分節化し、あらゆる価値観を生んでいます。しかし、それはただの思い込みにすぎません。分別思考は、慣習的に形成され、知らず知らずのうちに、自分だけの固定概念にとらわれてしまいます。
 本来、世界は、全体として一つのものであり、世界と我の区別はありませんでした。海に例えるなら、我とは一個の「波」で、その本体は「海水」です。生命としての我は、肉体的に制約され、一つの空間を占めます。しかし、それも全体との関係性によって、そこに存在しているだけです。空を悟った者は、世界と同化し、真理と一体化した存在となります。世界はすでに完成されたものなので、わざわざそれに抗う必要はありません。空を悟った者を「仏陀」と言います。


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