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建御名方について

【国譲り】
 建御名方「タケミナカタ」は、国津神の長である大国主の次男として生まれました。その兄は、神託の神である事代主神です。大国主は、もともと葦原中国「地上世界」を支配していました。しかし、その支配権を要求してきたのが高天原の神々です。高天原の長「天照大神」は、「武甕槌」という力の強い神を派遣しました。
 それに最後まで抵抗したのが建御名方です。建御名方は、千引の石「巨大な岩」を持ちながら武甕槌「タケミカヅチ」の前に現れました。そのため、力持ちの神様とされています。建御名方と武甕槌は、相撲で決着をつけることにしました。これが、今日まで伝わる相撲の起源だとされています。建御名方は、武甕槌の手をつかもうとしましたが、上手くつかめませんでした。なぜなら、その手が氷や剣に変化したからです。建御名方は、武甕槌に手を握り潰され、両手を千切られたうえに、投げ飛ばされてしまいました。
 敵わないと思った建御名方は、信濃国の諏訪のあたりまで逃げたとされています。建御名方は、殺されると思い、諏訪湖から出ないという約束で、武甕槌と和睦しました。これ以降、建御名方は、神話には登場しません。「鹿島神宮」は、その建御名方を監視するために建てられたとされています。

【洩矢神】 
 建御名方の諏訪入りに、抵抗したのが土着の竜神「洩矢神」です。洩矢神「もりやしん」は、建御名方との戦いに敗れました。建御名方は、洩矢神の武器である「鉄輪」を「藤の枝」で朽ちさせて勝利したとされています。戦いに勝利した建御名方は、諏訪明神として、諏訪大社の主祭神とされました。諏訪大社は、7年に一度行われる「御柱祭」が全国的に有名です。御柱祭は、日本三大奇祭の一つに数えられています。負けた洩矢神は、追い出されることなく、建御名方の臣下にくだりました。その洩矢神の子孫が守矢氏です。守矢氏は、諏訪大社の筆頭神官である神長官「じんちょうかん」を代々務めています。

【軍神】 
 建御名方は、武甕槌に敗れたとはいえ、国津神の中では最強とされ、日本三軍神の一人にも数えられています。武田信玄や徳川家康などの名だたる戦国武将も建御名方を崇拝していました。建御名方は、もともと風神だったので、元寇の時は、嵐を起こし、元軍を撃退したとされています。また、戦勝祈願をした坂上田村麻呂にも、騎馬武者の姿をとり軍勢を先導しました。建御名方は、神功皇后「じんくう」の三韓征伐にも助力したとされています。三韓とは「新羅」「百済」「高麗」のことです。三韓征伐は、日本初の対外戦争だとされています。

【龍神伝説】
 諏訪湖には、もともと土着の龍神が住んでいました。その龍神を退け、新たな諏訪湖の龍神として鎮座したのが、建御名方です。建御名方は、もともと水の神でもあったので、龍神の姿をとることもありました。水の源は、山にあるので、水の神は、山の神ともされています。農業用の水も、山から流れてくる水です。そのことから山の神は、農耕神ともされました。農耕神としての建御名方は、信濃の国造りに尽力したとされています。

【神無月】
 10月は、出雲で全国の神々が出席する会議が行われます。そのため、各地では神々がいなくなりました。神がいないので、10月を神無月と言います。ただし、建御名方には、諏訪の地を出てはいけないという約束があったので、その会議には出席しません。そこから、信濃国には神無月がないとされました。別の説には、龍神となった建御名方の体が大きすぎて、会議をする社内に入れなかったので、神々が断ったというものがあります。

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