見出し画像

ショーペンハウアーの「無関心」

もう10月。
札幌も残暑という感じだったので一気に寒くなった気がして、秋を楽しむ気分にはなかなかなれない。

鳥越覚生『佇む傍観者の哲学』を読んだ。
ショーペンハウアーを「無関心」というキーワードで読み解いていく。ここでいう「無関心」とは、僕たちが美しい風景を見るときのように、日常的な利害関心を離れて、というような意味で言われている。本のタイトルのように、利害関心にとらわれていた僕たちが「佇む傍観者」として無関心に風景と出会うとき、その美しさが僕たちに現れてくるのだ。そして「佇む傍観者」こそが、世界の悲哀を直視し、苦悩を共同し、利害関心渦巻く娑婆世界を、エゴイズムを超克するのである…

とまぁこんな内容な訳だが(短くまとめると何だかピンとこないかもしれないが読むとショーペンハウアーの主著について理解が深まった気がしてくるありがたい本であった)、僕がおもしろかったのはやはりカントとの絡みで、本では第二部の冒頭に当たる第八章「美から善へ」の中で主客の同一性の問題を論じている所を少し見ていきたいと思う。
主客の同一性=見るものと見られるものの同一性がなぜ問題になるのかと言えば、それが自‐他という区別の根本であり自分が感じた「美」や「善」が他者と共有可能であることの基盤になるからである。もし主客の同一性がなければ、僕たちが感じる感覚は、どこまで行っても誰とも共有することが出来ないということになる。また、主客の同一性を突き詰めると「汎神論」のような「一にして全」の思想に行き着く。(「人類補完計画」はこの思想の極点にあると言えるだろうか)。
ショーペンハウアーにとって世界は「意志と表象としての世界」である。ここで意志とは身体に支配された生命維持のための「生きんとする意志」であって、僕たちに与えられる表象はその意志の支配下にある。知性は人間の生命維持あるいは人類の存続を欲求する意志に従属し奉仕している。意志に有用なものが主観に対する客観として表象されるのである。
この世界においては、主客はこのように分かたれている。意志があり、その意志に基いて表象としての客観がある。そこでは主客の一致はない。
そのため、主客を一致させそれを共有可能なものにするためには、日頃囚われている利害関心を離れて、「佇む傍観者」として意志に染まっていないありのままの客観である「単なる表象」を見なければならないのだ。ここにおいて、意志によらない主客の同一性を見出すことができるのだ。(本書ではこれが外界の客観の間の同一性(=人類補完計画的)ではなく内なる表象=現象と外なる表象=理念の一致であることに注意を促している。)この同一性によって、「見るものと見られるもの」の一致が「苦しめるものと苦しめられるもの」との一致と結び付き、苦悩の共同による倫理が導かれていく。僕たちは生きんとする意志に基いて「苦しめるものと苦しめられるもの」であるのであり、そのことを「単なる表象」として双方が意志として盲目であることを認識することで、敵を赦し、他者と共に苦しむことが道徳であるという主張になるのだと。

ここにはカントとの違いがある。
本書第八章の小括から引用してみる。

カントでは美的共有感と理性的な人格同士の共同が考察されるが、ショーペンハウアーでは美的直観における主客の同一性と心情に立脚した苦悩の共同が考究される。特に心情に着目すると、カントでは美の領域で心情に立脚した〈美を巡る対話〉が考えられていたが、ショーペンハウアーでは善の領域で心情に立脚した〈苦悩の共同〉が考えられていた。

鳥越覚生『佇む傍観者の哲学』p164-165

乱暴に言えば、カントにとって道徳や倫理はどこまで行っても理性に基かなければならない。だから、「犯罪を犯しかくまってくれと頼みに来た友人は警察に突き出すべきだ」という話になる。
ショーペンハウアーは違うだろう。犯罪を犯し助けを求めに来た友人も、もちろん警察も、「佇む傍観者」としての哲学者にとっては意志に囚われている存在であることに変わりはない。おそらく友人に寄り添いつつ彼がどうすべきなのかを共に考えるというのがショーペンハウアー的な結論ではないか。
しかし、この一見もっともな敵を赦し犯罪者を赦す道徳観がいかに実践が困難であるかは言うを待たない。もし僕が自分の子どもが害されたとき、犯人を赦すことができる自信はない。どんなに私刑が許されないことであるとしても、それが頭ではわかっていたとしても、復讐したいという意志を抑えることができるだろうか。
ショーペンハウアーはそこでも「佇む傍観者」であることを求める。確かに、ショーペンハウアーの言うようにそのことによって共同性というものが成り立っているのであれば、僕たちの社会はそのことによって維持されている。しかし、苦悩の共同が、その苦悩の当事者にまで届かないことは大いにあり得る。「佇む傍観者」の立場は、当事者から時に糾弾される。「お前は一体どちらの味方なんだ!」と。そういう意味ではショーペンハウアーの共同は所々穴が開いている。
「赦し」の問題は、この穴の問題でもある。カント的な明晰さも、ショーペンハウアー的な曖昧さも、同時に含みこんだような共同の紐帯を僕たちは考え続けなければならないのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?