Re: Review ~ 内山ディスクレビューに対する大人げない苛立ちの煮凝り

TL;DR

  • RAYというアイドルグループの内山 結愛さんのディスクレビューは、直感的・観念的感想に重きを置きすぎていてシンプルに読みが浅いので、そこは改善してほしい。

  • 一方で、コンテンツの受益者たるオタクは、これを「おじさんに媚びた企画」ではないということに言葉を費やしているが、むしろ構造的にはその媚びてなさをもって安心して承認欲求的なものを慰撫するために牽強付会しているようにしか見えない。

  • 「好き」は何にも優先され、それが前面に出ている文章こそが素晴らしいというイデオロギーは、俯瞰と心酔を同時に出来ない人の精神勝利以上の意味は持たないと思う。

前書き

今回、内山ディスクレビューに対して、ちょっと個人的に批判する必要があるのではないかと思ってしまったので、年の瀬の暇な時間を使って言語化を試みてみました。如何せんめっちゃ長くなる気配がしているので、TL;DRをこの上に引っ付けることになるとは思いますが、心に余裕のある方はお読みいただけますと幸いです。

そもそも内山ディスクレビューとは

RAYというアイドルグループを知っているでしょうか。公式サイトによると、以下のような特徴を持っている、シーン(思うけどこういった場合のシーンって、良く境界が行方不明になりますよね)においてはそれなりに知名度と集客力を持つグループという印象です。

「圧倒的ソロ性」と「『アイドル×????』による異分野融合」をコンセプトとする新時代のアイドル活動『RAY』

https://r-a-y.world/

そして、その中のメンバーの一人である内山 結愛(うちやま ゆうあ)さんは、note上にディスクのレビューを定期的に書いていて、またTwitter上では内山結愛毎日1アルバムという名目で、一ツイートに収まる形での小さいディスクレビュ―を書いています。以下にこの記事を書いているタイミングで最新のレビューへのリンクを貼るので、以後の内容について、参照しながら読んで言って貰えるとありがたいです。以降、noteで提供されているコンテンツを内山ディスクレビュー、Twitterで読んでいるやつを内山1日1アルバムと呼称することにします。

筆を取ったきっかけ

最初に内山ディスクレビューを見かけたのは、たぶんThe Pop GroupのYのレビューか何かだと思います。その時の印象としては「ずいぶん荒い感想だけど、自分The Pop Group全然聞いてないし、正しいかどうかわかんないからスルーしよ」でした。

それから、ある内山1日1アルバムにて、自分も愛聴していたPeople In The BoxのFamily Recordのレビューを行っているときに、「なんだこれは?何一つまともに聞けてないんじゃん」と思いました。

そして、このレビューをきっかけに私の中で内山さんのレビューへの信頼度は底値を打ったのですが、それでも特にわざわざ批判的な文章を公にする必要はないかなと思っていました。

ここまでは前置きで、ではなんでこの記事を書こうと思ったかというと、理由としては二つあります。

一つに、このレビューによってCINRAにてインタビューが行われたことです。いままでこのコンテンツに「微妙だな」という感想こそ抱きすれ、それを表出しなかったかというと、コンテンツとしては内向きである印象を覚えていたからです。例えば、Twitter上で自分の好きなものに対して何かしらの感想を書いている人がいたとします。その内容があまりにも稚拙だったとしても、いちいちリプライを送って訂正させに行ったりはしないじゃないですか。僕にとって、内山ディスクレビューや内山1日1アルバムはそういった位置づけの物でした。
しかし、今回はそれによって外部メディアによってインタビューが組まれた。それによって自分の中では内向きのコンテンツから、アイドル内山結愛のマーケティングの一環としてのプロダクトという位置づけに見直されました。そしてそういったプロダクトがある種の公共性を帯びたため、その質やあり方に問題があると感じられた場合、それを批判する文章を公開することは価値があると判断いたしました。

二つ目に、ファンの中での評価がおおむねよく、また上記レビューを肯定する内容の記事がファンの手によってアップロードされたことです。ここら辺は僕の勝手な印象ですが、いわゆるコアな音楽ファンの方々の肯定的なリツイートによって上記レビューが回ってくることが多く、そういった方々にとってはあのレビューはとても良いものとして受け入れられているのがわかりました。(まじか、とは思っていますが)
そして、先日、とあるファンの方が上記レビューについての感想をまとめているのを目にしました。

内山結愛さんを応援している側からの目線でこのレビューについて熱量高く感想を述べられていて、こちらは物語としてとても素晴らしいと思います。その一方で、上記の見方はディスクレビューを通じて内山結愛を覗いている構造なのですが、それは内山結愛さんというアイドル個人への解像度に依存するものの見方で、それってディスクレビューの質とは関係ないよなという点が少し引っ掛かりましたが。
ともかく、肯定サイドからはこれほど良い文章とされるものが出てきている以上、反対の感想を持つものとしてはここで一つこういった側面の意見もあるんだよってのを出しておかないと正のコンテンツであることがデファクトスタンダードになってしまうのではないかといった点を危惧しまして、批判する文章を書こうと思い立ちました。

前提となる基本事項の確認

さて、以降は具体的に内山ディスクレビュー並びに内山1日1アルバムの在り方について問題だなと思う箇所を挙げていきたいと思うのですが、その前に前提となる私自身の立場や、内山ディスクレビューの知識の仕入れ元などの情報をクリアにまとめていきたいと思います。以後の文章は下記内容をベースに進めていきますので、事実誤認などありましたらその旨お知らせいただけるとありがたいです

  • 筆者(ツヾキユウ)は、RAYについては対バンイベントで年に二、三回観る程度。

  • 内山氏についても、彼女個人の情報は筆者はほとんど知らない。

  • レビューについては、いくつか読みはしたが正直そこで触れられているアルバムのうち9割程度は聞いたことのないものであり、自分が懸念している箇所は残りの数少ない知っている作品へのレビューを観た時の印象をもとにしている。

  • 彼女のディスクレビューの基本方針は、主観的な印象に重きを置いている
    (個人的にはロラン・バルトのテクスト的な鑑賞態度に感じられました)

  • CINRAのインタビュー記事以外に内山氏が自身の鑑賞スタイルについて自己言及した資料はない。もしくはアクセスが困難である。

  • モチベーションとしては、読者の反応を支えにしている。

レビュー方針への懸念

では、ここから上記レビューの何が個人的に良くないと思っているのかという点についてまとめていきたいと思います。まず、主観的な印象に重きを置いた鑑賞態度についてですが、CINRAのインタビューではこのように書かれています。

―レビューはいつも楽しく読んでいるのですが、内山さんは作品に対するファーストインプレッションをつねに大切にされていますよね。なのでレビューを読んでいると、仮にそれがいままで何十回、何百回と繰り返し聴いてきたアルバムだったとしても、初めて聴いたときのことを思い出させてくれる。

内山:嬉しいです。レビューを書くときは、おっしゃるようにまずはまっさらな状態でアルバムを聴きたいので、前情報などをなるべく入れないよう気をつけています。そして、聴いているときに思い浮かんだ景色や言葉など、音楽的知識とは関係ない主観的な印象を書き留めておく。すべて聴き終わってからそこで初めていろいろ調べてみて、「あ、ここはこういう楽器を使っていたのか」みたいな答え合わせをしつつ、それをレビューのなかに盛り込んでいます。

https://kompass.cinra.net/article/202111-uchiyamayua

それ自体は一向にかまわないし、逆に頭でっかちな態度で聴いたものについて書くのは難しいですし、また新鮮さのようなものは失われてしまうでしょう。
このレビューやそれにまつわる一連の感想について自分の中で思考を整理していた時に、小林秀雄の「美を求める心」の一節が思い起こされました。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だと解る。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、それこそ限りなく明かすでしょう。

(中略)

泣いていては歌はできない。悲しみの歌をつくる詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを美しい言葉の姿に整えて見せる人です。

小林秀雄「美を求める心」

ではそうやって聞き込んだものを言葉に落とし込めているのかというと疑問を感じます。小林秀雄の引用に沿っていうのであれば、レビューとは、対象となる音楽を聴くことによって生じた感情に、溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを美しい言葉の姿に整えて見せることだといえます。それと内山さんのレビュー文章を比べてみると、あまりにも自分の感情に対して、じっくりと感じ、言葉を整えるという過程が疎かなように感じます。つまるところ、全然聴くという行為と、言語化するという行為に十全な時間をかけられていないという風に私には見えます(そもそも、週一や毎日アルバムを聞いて言語化するという試みそのものがちゃんと聞くには無理筋なペースに私には思えますが)。

少し昔話をしたいと思います。9年くらい前、大学に入学した時に入った現代詩のサークルで当時の幹事長が好きだったバンドがいて、オススメされたわけでもなんでもなかったとは思いますが何の気なしにそのバンドのとあるアルバムを聞いたところ衝撃を受けました。変拍子を多用しながら、時に激しく時に優し気なサウンドの中、物語を紡ぐボーカルが見せる幻想的かつ不穏なお話の数々に、最初はどこをどうつかめばよいのか全く分かりませんでした。(次の文章と矛盾するようなことを言いますが、多分今でも全てがわかっているわけではないです)
ただ理解が追い付かないながらも学生生活に寄り添う形でずっと聞き続けて、大学卒業後、もうそのバンドを教えてくれた幹事長も特に連絡を取らなくなったなか、ふとした瞬間にその拍子・サウンド・ボーカルなどの個々の要素が調和して、一つの冷たく、怒りを秘めながらも優しいまなざしや愛情を纏った一つの作品として聞こえてくるようになりました。私としてはその瞬間の前身の毛が逆立つような感動を今でも覚えています。

そのサークルの幹事長が教えてくれたバンドこそがPeople In The Boxで、何の気なしに手に取ったアルバムこそがFamily Recordでした。
これは極めて個人的なナラティブなのですが、それを踏まえて内山さんのレビューを観た時、正直な話をすると自分のこの4年分の思い出を穢されているように感じました。内山さんのレビューからはこのような経験を本人が感じ、それを言語化しようと懊悩するような筆跡が感じられないのです。
本人はいたって真剣にやっていることとは思いますが、それにしてはあまりにも表面的な聴取体験でとどまっているものを継続的にコンテンツとして公開するのは、個人的には承服しかねます。

やっぱり、音楽との出会い方って人それぞれだとは思うのですが、好きで聴いている人と好奇心由来とはいえ勉強としてコンスタントに聴いている人との間ではその物語強度に大きな違いが出てくると思うんですね(おそらくですが、内山さんを良く知るファンの皆さんはレビューそのものに加えて内山さんそのものの物語をメタ的なレイヤーに追加した状態で鑑賞されているのだと思いますが、そうでない人が本質的に出会い得る媒体ですよね)。なのでそういった部分にギャップがあることについてカバーしきれるくらいの観察をして欲しいと個人的には思いました。

あと、これは返す刀で自分を切りつつも指摘したいのですが、内山さんのレビューには歌詞への目線が非常に薄いように感じられました。非日本語の楽曲において歌詞というものをどうやって咀嚼するのかについては難しい所があるとは思うのですが、歌は音と言葉の両輪で初めて意味を成すと思うので、そこについての目線がもう少し強いといいなと思いました。

ファンの受容態度の問題

もう一つ、内山さんのレビューそのものではないのですが、取り巻く系として関連がないわけではないので取り上げさせていただくと、個人的にファンの受容態度も問題だと思っています。上記708さんの記事でも触れられている通り、このディスクレビューにはある危うい点があって、それは容易に「音楽的な知識が相対的に不足している20代の女の子が、40代の人たちが好きそうな音楽を聴いてそれに純粋かつ好意的な感想を挙げることによってそれを観た40代のファンたちが消費する」といったディスクレビューポルノに転化しやすいという構造を有するということです。
現に、708さんの記事ではそこを懸念しつつも、下記のような文面でそうではないと主張しております。

 彼女のNoteに刻まれた100枚を超えるCDレビューは、「右も左も分からないアイドルが、洋楽の名盤を聴いておじさんを楽しませる企画」などでは断じてない。
 優しくも勇敢なひとりの女の子が、音楽の大海へ飛び込んで自分自身を救い出す、長い長い冒険小説だ。
 否応なく悲しみが降りかかる世界で、曲の間だけ自由をくれる音楽の奇跡が生んだ、しあわせの結晶だ。

https://note.com/td708/n/n99ea0003ce30

また、Twitter上でも内山さんは上記レビューでおじさんに媚びているわけではないというコメントをちらほらお見かけしました。ただ個人的に議題にあげたいのは、「内山結愛はおじさんに媚びているのか否か」ではありません。「このディスクレビューポルノ構造、お前ら消費しているよね?」です。現に、もともとの作品の意図がどれだけ健全なものであろうが、取り巻く構造によって不健全な消費の仕方というのは現れ得ます。(現実問題Youtubeで陸上の全国大会の映像が、女子だけ伸びるみたいなことが起きているらしいです。)

私のTwitterのタイムラインに内山ディスクレビューの記事のシェアが回ってくる時には、概ねこのような類型で回ってきます。
「内山さん○○聞いたんだ。」
「次は△△の××のレビューだって!」
「○○聞いたならば□□もおススメです」
これらが、内山さんをフォローしていない私のタイムラインに流れてきました(リプで良くない?)。自分もたまにやってしまいますが、(YUP YUPのFewwさんがDJやってるときに良くやらかしております。すみません)これらって極めて消費的な文言だなあと思っています。
この文言の構造は、世間一般的にマイナーもしくは前衛的なジャンルのレビューを内山さんが書く→それを知っている発話者(私のタイムラインにツイートを流した人)がその知識をベースに発信を行うという流れを通じて、「自己の感性と内山さんの感性に何らかの連関を観ている」様を第三者に開陳するといったものになってます。これって、内山さんがディスクレビューで取り上げたという事実だけで、内山さんと(それが好きだと推察される)発話者の在り方的なものに無理やり線をつなげるとても侵襲性が強いコミュニケーションの在り方なんですが、それに寄与しているという点で個人的には良くないと思ってます。

好きという感情は何物にも優先する。のか?

ここまでで内山さんのレビューやそれを受容する側の問題についてあげつらいましたが、大元のレビューやファンの反応を観ていると、ある価値観が通底しているように思えました。それは、「好きという気持ちは他の何よりも尊く、それを熱量が高いまま言語化することこそが良いことである」です。正直、この考え方は今回のこのコンテンツに限らずオタクコンテンツにおいて結構広範に受け入れられている価値観のように見受けられます。しかしながら、個人的にはこの価値観に異議を唱えたいと思っております。

大前提として、対象に対して「好き」という表象を抱くことについて誰も止める権利もないですし、何分私もアイドルのファンでありますので、よく理解していると思っております。ただ、その表象を言語化する場合において、先の小林秀雄ではないですが、その好きという感情をじっくりと感じ、捉える必要がないかと考えています。好きだと思うことそのものは自由なのですが、「好き」だと言ったり、書いたりすることに関してはこの「好き」の正体についてじっくりと考える時間が必要だと思います。
突っ込んで言えば、さらにそれで掴んだ「好き」を書くということは何なのかといったところにまで思いを巡らせる必要があると思うのです。
(この文章の場合はどちらかというと「嫌い」に近い感情からスタートしたので、「好き」の場合より更に慎重な対象へのまなざしとこの文章を公開する意味について考えました。)

我々は、好きだと叫ぶ前に回すべき脳内回路があるはずです。大学の頃に座禅のサークルに所属していた知人がいるのですが、彼が言っていたこととして、「目を閉じて座禅を組んでいると、徐々に呼吸をする自分というものを観察するようになる。それを徐々に繰り返していくと、自己の感情の一つ上のレイヤーにそれを観察する自分が出来るようになって、例えば喜怒哀楽の感情を持つようなことが起きた時に、今まではそれを100パーセント自我で喰らっていたけれど、だんだん「ああ、怒ってんな俺。ここの部分が気に障ったんだろうな」みたいに客観視出来てきて、心の安定が図れる」っていうのがあります。全然悟れてないじゃんと当時は思っていましたが、この知見はなかなか良いものであると思います。このように、対象に対して愛着する自己と同時に、それを俯瞰する自己を持って対象(座禅の場合は自己の身体でしたが、今回の場合は対象の作品ですね。)に向き合うべきなんじゃないかなあと思います。

なんで分離する必要があるのかというと、愛着する自己というのは特殊性が強すぎて、他者とのインターフェイスとしてはほぼ何の役にも立たないからです(人の好みは千差万別ですし、それらの愛し方はその人の置かれた環境や出自などの変数によっていくらでも変化し得ますよね?)。
誰もが何かに愛着することはおそらく普遍性を帯びた現象だと思いますが、それによって得られる他者とのコミュニケーションは、単純にその人の愛着の仕方を、自分に置き換えて解釈するという形を取らざるを得ません。その場合の解釈可能性は、対象の属性との差分の多さなどに影響を受けてしまいます。近い内輪でわいわいするだけならば問題はないかと思われますが、ネットのような本質的に自己の想定し得ないコミュニティに接続可能性のある媒体において、それは(四年間大事に聞いていた音楽を1日のたった140字の荒いレビューに落とし込まれて苛立ちを覚えた成人男性が発生したように)不幸な出会いをもたらします。

なので、何かしらの普遍性に依拠したコミュニケーションをとる必要があると思うのです。それはある哲学的立場かもしれないですし、それはある本で示されている方向性かもしれないですし、もしくは誰かの受け売りかもしれません。ただ、そういったことを抜きにした、もしくはそれが感じられない文章というものは、弱い言葉を使えば射程の狭い言葉、強い言葉を使えばデータセンター上の無駄なビット列にしかならないのではないかと思います。
我々は、俯瞰と心酔を同時にやるべきなのです。それを個人的な体験に留めず、誰か他の人に伝えたいと思うのならば。

最後に

長々と書いてまいりましたが、最後にたびたび引用いたしました708さんへお詫びとお礼の言葉をお送りいたします。
確かnoteの仕様上引用すると通知が行くかと思われますので、まずそれにより煩わせてしまったことをお詫び申し上げます。また、本文中で代表例として、やり玉にあげるような形になってしまい申し訳ございません。このレビューについてTwitterレベルでの一言コメントは飽和しているのですが、ちゃんとひとまとまりの文章として発表されているものが708さんの記事しかなかったため文章構成上こうなってしまいました。708さんの文章によって内山さんという人物への理解が増しましたし、それによって少し自分でも誤解していた箇所があったことに気づけました。とても読み応えのある文章ありがとうございました。

個人的には自分の聞いているよりは広範な範囲を貪欲に聞いていきながら全力で言語化に励むという姿勢そのものは素晴らしいですので、内山さんの今後の成長には注目し続けたいなとは思っております。徐々にスタイルが洗練され、あの時に自分が感じたような感想を抱かなくても良い領域まで雄飛していくのを願いつつ、この筆を置きます。乱文で徒に長い文章ではありますが、最後までお読みいただきありがとうございました。


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