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子を思う人の闇についてー『苔の衣』より

今日も暑いですね!
猛暑の中でも生徒は集まって、授業を受けてくれています。
最初の授業は高3の共通テスト対策国語古典です。
現代文が得意ではありますが、こちらは結構熱を入れて解説しますが、古典の場合、知識で解ける面もあるので、幾分サラリと。でも、時には心情理解に力が入り、結構熱を帯びた解説をしてしまうこともあります。
サラッとおもしろいねー!
と言ってしまうこともあるのですが、中古の恋物語がそれ以降の擬古物語になると、なんとも悲恋が悲恋で、それこそあはれにしみじみと、こちらがそちらの世界に飛んで行ってしまいます。

男子ばかりで、おまけに理系が大半のこのクラスに語りながら、
せいぜい古文読むの来年の受験まででしょ?
受験のためだけのこの世界を使うのは勿体ないよね!本当に。
この世界は我ら日本人の宝物だよねえ。

などなど説教くさいことを言いながら、私は古文の世界に浸っておりました。
テクニカルに解き方も伝えますし知識的なことも話すのですが、やはり心情理解の部分になると文脈との絡みであれこれ語ることができます。

その中でも、今日は北の方を亡くした大将が、まだ幼い我が子(若君を姫君)を姉の女院(天皇の奥さんで、退位した人。)に託し出家していたのですが、中宮になった(養母である、大将(今は入道)の姉の、息子である春宮の第一夫人。)姫君が容体悪くて加持祈祷に呼ばれ、験ありて中宮が快癒する話です。
一方で、中宮に乗り移った兵部卿の宮は春宮の弟で、苦しかった現世での中宮への恋心を母である女院に訴えます。
母のそんな息子の思いを知らないで・・・、という後悔やら、少しも知らなかった。さぞかし悔しかっただろう、という母の息子の無念を思う思いも描かれます。
そして、我が子の加持祈祷をして姉と我が息子と娘と会うことになった入道は、自分の心の闇に出会うのです。
出家して、この世を捨てたはずなのに、こうして再会してみると、若君や姫君の幼かった頃の可愛い様子が思い出される。一人仏道修行に励もうと思っていたのに、近くにいては心乱されもするだろうと、今まで住んでいた場所よりもより遠いところに移るのです。
中宮のお守りにと渡された加持祈祷の道具を包んだ紙に書かれた歌を読んで女院も中宮も殿(関白になった若君。)も何にも言わずに去った入道への思いになんとも言えない思いをするのでした。

その歌が、
身を変へて真の道に入りぬれどなほ子の闇に惑いぬるかな

そしてその歌のの引き合いに出されたのが『後撰和歌集』の藤原かねすけの歌です。

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな

いやいや闇ですよ。親の心はいつまで経っても。
目の前にいる生徒の親御さんのお気持ちを伺っていてもそうだし、自分は偉そうに教師面していますが、こんなの教師として我が子でないから幾分冷静にあれこれ言うこともできますが、我が子なら心配が先に来てあれこれ言ったりやったりしてしまいますって。

そんなことまで話してしまった古文の後で漢文は幾分理屈が勝って、理系の頭には理解しやすいようで・・・。

今日は干宝の『捜神記』でした。
私が漢文を大好きになるきっかけになってくれた作品です。
明治書院でものすごく高かったのが出ていましたが、つくづくあの時の本を買っておけばよかった!と後悔しています。
今日のは『捜神記』の中でも動物と人間の心の交流みたいなものでした。
神を捜すと書きますが、志怪小説という民間に伝わる怪異小説です。
こちらは冤罪の話。
中国の話には裁判やら刑務所やら閻魔様やら訴訟の話がよく出てきます。
無罪なのに拷問に耐えかねた人が頼ったのはケラという3センチくらいの虫でした。

お前に神通力があるのなら、死ぬ運命にある自分の命を助けてくれたならなんと素晴らしいことだろう!

と思って毎日ケラに自分のご飯をやっていたら、その虫が数十日後、豚のように大きくなって獄の壁に穴をあけてくれた。
そこで足枷を壊してその穴から逃げたというような話。

受験指導ではありますが、私は毎回古典の作品を読んで、なんとも言えない思いになるのです。
生きててよかった!というほどの。

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