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オーラって何だろう・・・?

最近、敬宮愛子さまの気品あふれるお姿やお振舞いを絶賛する声をよく聞くようになった。
私はなぜか愛子さまの映像を観ると、なんだか切なくて泣けてくる。

この方はどれほどの苦しみや悲しみや切なさを乗り越え、内包し、お若くもどれほどの苦悩を抱えてこらえたことだろうか?
だからこそ内親王ということになるのかもしれないけれど。

お母さまのご病気もあり、ご自身のいじめの体験もあり、ただただご両親の愛情に包まれておられたからこそのことであろうと思われる。
母の病気というのは、本当に子どもに影響する。
いじめ問題の時は、雅子さまが付き添われて登校されていたということであるが、いろいろな意見のある中で、母として決断された思いはどのようなものであったろうか?

気品、オーラ。
なんとも言葉で言い表せないものである。

目に見えないという点で言えば、徳ということとも関連しているように思えてならない。

誰も見ていないところでの行動。毎日の言動。
人を思い、できるだけ傷つけないようにという気配り。
どこかで役立っていようという意志。
すべて、誰かが見ているわけでもないところでの言動が、見えない形になって現れるのではないだろうか?

教師の世界では、誰かほかの先生が言った同じ言葉なら伝わっても、他の先生が言った言葉は伝わらないというようなこともある。
発話者の人柄によって通じる。
また、同じ言葉でも誰かの言ったことなら理解されて協力もされるけれど、他の人は協力されないということもある。
それは、目に見えない徳であり、また気品やオーラとして顕れるのではないか?

造作やスタイルなどという外見の向こうにある、とんでもない雰囲気などからは、その人の職業が見えることもある。性格も顔に表れるという。

毎日の思い、ちょっとした振る舞い。これはしないと決める心。こういうことはしようと心掛ける意志。
人との関係において、マウントして、相手に嫌な思いをさせることは容易である。でも、そういうことが良い結果になることは少ないと思う。その場では仮に優位に立てたとしても、長い間の信頼や評価を得るには、付け焼刃的な事柄ではなくて、見えないところの心の在り方や振る舞いや言動に表れるものだと思う。

稲盛さんもおっしゃっているけれど、これは経営者として、会社の存続に関わることであるけれども、良くないことをしていても、五年、十年では結果が出なくても、二十年、三十年経てば色々見えてくるものだとおっしゃる。不正はいつか小さなクラックとなり、そのひび割れは大きな亀裂となり、表に出る。

日々、自分の立場を全うしようとし、自分の仕事や職務を遂行しようと努力する姿勢を貫くということは並大抵のことではできない。
でも、いろいろな困難を乗り越えて、目の前にある障害を一つずつ丁寧に取り除いて、いろいろな人の思いも、なんとか乗り越えて、それでこそ自分の仕事というものは全うできるものだと思う。

自分の仕事を全うしようとすれば、その仕事の完成度を上げるためなのか、それを実行する人を鍛えるためなのか、必ずと言っていいほど障害が出て来るものだと思う。
でも、その障害を乗り越えた先に、その人の人格の完成があるのではないだろうか?
一見、なんで?と思われる苦難の先に、しあわせがあることは多いし、また、乗り越え続けることがしあわせであることもあるし、そのこと自体がその人の立場であったり、仕事であったりするのかもしれない。

かつて若いころは、明日に何も苦悩のないことを望んだものだった。いつか平和に穏やかに暮らせる日が来て、人間関係もしっかり収まってくれる、理解し合える日が来ると思って努力してきたものだった。

あるとき思うようになった。
平和で穏やかな日々は来るのかもしれない。理解し合える日も来るのかもしれない。
でも、仮にそうでなくても、最後の最後の瞬間まで、努力すること。
他の人が良くない言動をしたとしても、仮に意地悪があったとしても、自分まで意地悪になることも、良くない言動をすることもない。
ただただ、自分の仕事を全うするように努めるだけだ。
誰かが良くないから自分も良くないことをする理由にはならない。
笑顔で過ごすことは、誰かがそうでないからやめることではない。

それに、自分がどんな思いをしていたとしても、誰かへの愛を止めることなどない。大事な人は愛し続ければいい。愛して愛して、愛し抜いて、その人のしあわせを願い続ければいい。
誰かが自分のためにいるのではなくて、自分が誰かのために存在するということを心に銘じている人は、おそらくオーラが違うのだと思う。
目の前に現れた決断だとか、言動とかだけで判断するのは良くないにしても、本当に意志のある人の言動には一貫性があるものだと思う。
付け焼刃的な、演出力のある言動の前に、本当に徳のある人の言動は揺るぎないものに感じられる。

そう、一貫性。
自分は○○だから、これを貫く。
そういう意志。
臨機応変に、柔軟に対応するのも大事であるが、それとて一貫性の中にある。
そういう人のオーラって素晴らしいものがあるのではないだろうか。

そうそう、かつてセンター試験の国語の評論の過去問に、河合隼雄の論が出ていた。
精神分析家である河合先生は、何かを勉強しに行かれたのだったと思う。北アメリカ南西部に住んでいたプエプロインディアンの顔に、とんでもなく気品があるのを感じた河合先生は、なぜだろうと思われて、訊いてみたら、なんでもぷエプロインディアンの人々は、毎日、間違わずに太陽が東から登って西に沈むのは、自分たちの祈りのせいだと信じているのだそうである。
自然の滞りない運行には、自分たちの祈りが役に立っているという誇りと自覚が彼らの顔になんとも言えない気品を与えているとのことだった。たしか神話の知、解釈の知、物語の知について書かれた論だった。

大学受験指導のさなかに、その問題文を読んで、私は本当に感動し、納得し、嬉しくなった。
誰かの役に立っている、誰かのために、何かのために祈るということ、その素晴らしさ。そして、それが目に見えない気品となった周りの人に感じさせることの尊さ。
人の内面の不思議に触れた文章だった。

こういうことが、私は大好きである。
事柄ではない、徳。そこからにじみ出てくるオーラは、きっと隠せないものなのだと思う。
そして、大人な感覚ではありながら、どこか純粋で、ある意味無邪気に子どもっぽく思っているように思えて、私はこういう目に見えない力が好きなのだ。素直で純粋で。切ないほどに思っていて。


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