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母との永遠の別れ

久しぶりの投稿です。

ちょうど一年前に、実母が他界しました。
一周忌を迎え、今の気持ち、時系列を残しておこうと思います。
主に自分の心の整理のため、だと感じます。
返事のない手紙を書き続ける日々が始まった気がします。

これが喪失感か…

そんな毎日を今も過ごしています。

母との関係性

幼い頃からそこまで仲良くはなく、
むしろ喧嘩も多く、大学を卒業してすぐに家を出た私にとって反面教師でもありました。
私から本音を言うことはあまりありませんでした。
所謂、機能不全家族(アダルトチルドレン)だからです。

だからこそ、晩年コロナ禍前に少しずつ私も母になりお互いに年を重ね、穏やかに話せる様になったことが嬉しくもありました。

これから、知らないことを教わることもあるだろう、愚痴を聞いてもらうことも、弱音を吐くこともあるだろう。
そんな母娘の普通のやり取りが出来そう…

そう思っていた矢先に、「母が少し立ちくらみがするんだよね」と体調不良を話すことが増えました。

若い頃から難病を抱えていた母だったため、
長年の疲れが出たのかもなと思いながら経過を見ていました。

そんな期間に、認知症の祖母が亡くなりました。

祖母の他界

祖母は、母にとって大切だったのだと今も思います。でも、愛情を見せない人でした。
孫の私にも見せない人でした。
不器用な人でした。

母は寂しかったろうとおもいます。
母の晩年は、懸命に施設に通い、祖母の面倒を見ながら私に迷惑をかけないよう、
終活をしていました。

「元気なうちにやっておかなければ、迷惑をかけてしまう。幸せになって欲しい。
お母さんは散々苦労したから、幸せになって。
落ち着いたら、話せていないことが沢山ある。
あなたに知っておいて欲しい…今は言えない。」

何か伝えたかったことがあるのだろうけれど、結局聞けないまま今に至ります。

祖母の葬儀の時には、母は精魂尽きつつあり、車椅子生活になっていました。

「車椅子で迷惑をかける様になった姿を見せたくなかった。申し訳ないね。こんな姿で迎えて。
葬儀に来てくれてありがとう。」

車椅子に乗って葬儀屋さんと打ち合わせをする忙しそうな母と会場で話した時が、
今思えば、親子で交わした最後の普通の時間でした。

施設への入居とコロナ禍

祖母が他界した後、様々な手続きと四十九日を終え、タイミングを合わせたかの様に母の認知症が悪化していきました。

要介護認定も受け、電話が私にも頻繁にかかってきました。娘の私に、母は初めて話す人に語る様に自己紹介から始まり、娘と話したいです、困っています、と言う毎回同じ内容でした。

認知症が急速に進む中、私自身の気持ちは受け入れられず電話を取れない時もありました。
ごめんなさい。
そんな母は、時折、少し元に戻る時がありました。
「孫の名前がどうしても思い出せない。教えて欲しい。」と涙していました。

私はもちろん答えつつ、想い出を話すとすぐに想い出す訳です。母は、あんなに可愛い孫の名前また忘れるなんて情け無いと涙していました。

今まで私が生きてきて、初めて感じる種類の悔しさ悲しさの涙声でした。私には治してあげられることはできない。悔しい。

家族で相談し、自宅介護も限界を迎えました。
申し込んでいた施設に空きが出て、入居することになりました。

入居の日、私は電話で「また施設でも面会出来るから、今度は病院も近いし安心だね。お母さんもゆっくり休みながら、会えるのを楽しみにしようね。」と話しました。

〇〇ちゃん、「ありがとう。待ってるね。そうだよね、安心だよね、会えるんだもんね。お母さん、待ってるね。ありがとう。」

そう話して入居しました。

想定外の長引くコロナ禍、緊急事態宣言

冬に入居して、会いに行けるタイミングが春でした。
予定もたてて、いざ面会のため実家に行こうと思っていた矢先、コロナ禍に突入しました。

私は、子育てもしているため学校も登校出来なくなり、あらゆる意味で感情がパニックになりました。

でも、出来ることは家庭を守ること、穏やかに過ごすこと。

面会出来る様になるまで、そう思って数年が経ち。

下の子の入学式の数日後、母が息を引き取ったと連絡がありました。

結局、「会えるからね」という私の約束は守ってあげられなかった。

永遠の別れ

どうしようもない事というのは、人生の中で起こること。
親ならいつかは先に亡くなり、仕方のなかったこと。

精一杯お互いに数年間過ごして、この世では別れを告げたのだと思っています。
これを書いている私を、すぐ側でそんなに深刻にならないでいいのに、と見守っているのかもしれない。

でも、喪失感というものは、幾度となく襲ってきては向き合い、涙を流し、本当は私は母のことが好きだったのだと思い出すきっかけにもなっています。

情けないことだけれど、恨んだこともあります。
怒りもあります。

でも、よく考えてみると、当たり前ですが目の前にいる我が子に出会えたのは母が私を産んだおかげなのです。

笑っている母と私の写真 

遺品を整理していたときに、初めて母が赤ちゃんの私を抱っこしている写真を見つけました。
笑って幸せそうにしていました。
普通の写真に、私は衝撃を受けました。

自営業をしていた実家では、母に抱っこされている自然な写真は見たことがなかったのです。
亡くなって初めて、あの人は私の実の母なのだと実感しました。
伝わりにくい感覚かもしれませんが、その笑顔に嘘がありませんでした。

苦労していたり、寝込んだり、とにかく幸せと縁遠い母のイメージとは違い、私を産み育てている瞬間は間違いなく幸せだったのだと知りました。

その写真は、母のタンスに母子手帳と共にしまってありました。

私があげていた母の日の手紙や、プレゼントなどと一緒に入っていました。
何なのか分からないけど、多分大切で私に関連しているモノもいくつかありました。

2度と声は聞こえないし、教えてもらえることはありません。

でも、確かに生きていたんだなと、コロナ禍で3〜4年会えずに終わった母と娘の人生にも、光があったことを感じました。

葬式の時に、一瞬棺を開けて貰い、数年ぶりに間近で見る母は苦しかった闘病から解放されたかの様に穏やかでした。

冷たかったけれど、もう一度話したかったけれど、
痛みや苦しさから解放されたのなら良かった。

これからの自分の人生

あれから一年経ち、新たな問題も出てきました。
でもなんとか生きています。
この一年を心理カウンセラーの学びを深めたのは、私自身のためでした。

何かに没頭し、本来の私を知りたいと思いました。

これからも一生消えないであろう喪失感と、
どう向き合っていくのか。

涙を流したり、手紙を書いたりしながら、
本当は甘えたかった幼少期の私がいます。
どうせ居なくなっちゃうなら、もっと早く沢山甘えてみたかった。
甘えると言っても、ただたわいもなく話したり、買い物や食事に出かけたり。

そんなこと、してみたかったなと日々思います。

お母さん、ありがとう。

桜を見る度に、あなたのことをより思い出すでしょう。

でも、間違いなくこの経験は今後の人生と、
心理カウンセラーとして役に立つのではと思う毎日です。

お通夜と葬儀の後に見たお花見会場が、
今は一番行きたい場所です。

まるで、この世で苦楽から解放されるような、母とやっと穏やかにお花見が出来たような、
そんな場所でした。

またいつか、会おうね。

お読みいただきありがとうございました。

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