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慈善家なのか偽善者なのか。

今日の朝、仕事の締め切りがあって、必死になって提出した。


この「必死」という単語、必ず死ぬと書く。
もしわたしが明日死ぬとわかってたとしても、必死になって締め切りを守っただろうか?
ふと、そういうことを考えた。


そんなことを考えたのには、理由がある。

離れたところに住んでいる仲間だと思っている友人が、いろいろと上手く行ってなかったようで、応援して助けてあげたいと思った。
でもその話をしたのは、一カ月くらい前の話。
わたしたちの元に遊びにきたのは、それから一カ月も経ってからだった。
目の前に迫っている締め切りがあったのだが、そこを潔く諦めて一日時間を空けた。
ご飯もごちそうして、相方がホテル代も出した。
「どうしたらいい?」
と聞かれたから、そこにも真摯に答えた。
なのに「怒られた」「違和感を感じる」「付き合うのは無理」と遠まわしに言われた。
とにかく悲しかった。

生きるための大事な仕事の締め切りを、自分の首を絞めてまで、わたしはその人に会いたかった。
チカラになりたかった。
だからそのことは後悔はしていない。
感謝なんか忘れてしまうくらいに、それ以上に傷つけてしまったのかもしれない。
そもそも感謝なんかは求めていない。
純粋にわたしが彼女に会いたかっただけだった。

けれど、せっかくの厚意が伝わっていないとわかった時点で、
わたしは一体何をやっているんだろう…。
そう思った。
ものすごく残念な気持ちになってしまったからだ。
それは、相手に対してではなく、自分に対してだ。

過去、自分がやってきたことの積み重ねが今の現状を作っている。
それが本当なのならば、きっと今までわたしも同じようなことを誰かにしたことがあるんだろうな、と。
わたしってホントに最低だな、と思ったのだ。

落ち込むのはわたしの勝手だ。

だけど、目の前には締め切りが否応なしにやってくる。
わたしの感情なんか関係なく、時間は待ったなしに流れていく。
「違和感」だの「残念だ」だのと言っている暇はわたしにはない。

次の日にたまたま会った別の仲間に、それとなく聞いてみると

「周りがなんて言おうが、まみ助がやりたいようにやるだけ」

そう言われ「おっしゃる通りです」と返す言葉がなかった。
なんとなく撃沈したような気がした。

いつも助けてくれる仲間に、自分の機嫌の取り方を聞いてもみた。
聞き方が悪かったのか「またか、って思われるよ」と言われて、ショッチュウ頼っていたことを後悔する。
彼女に言われたことは、
「自分のやるべきことをやっていれば、周りのことは気にはならない」
それだって、確かにその通りだ。

だけど、わたしはコミュニケーションを諦めたくはない。

これは、確かなわたしの信念でもある。
それは、自分の考え方や価値観が正しい!と
押し付けることではないし、相手の価値観が間違ってる!と
否定することでもない。
お互いがお互いの価値観を知っていくだけなのだから
本来のコミュニケーションは衝突することはない、と思っている。

けれど、遮断されたらどうしようもない。

遮断したり、衝突したりするって、自分や相手が正しさを持っていたり、違いを認め合えてない時だと思うから。
相手を知るということが、わたしにはまだまだ甘かったのだ、と思い知らされた。

基本は相手を知ること。
自分を知ること。
自分のことを知らせること。

尊敬する人からは、こんな言葉がきた。

お互いがお互いのことを知ろうとしている間は諦めないけれど、
相手がそれを諦めたらコミュニケーションは成り立たない。

そうなってしまったら仕方ないから、そっとするしかその方法はない。

相手も傷ついているかもしれないけれど、わたしだってとても傷ついた。
だけど自分の機嫌を自分で取らないと、目の前の仕事すらできない。
それだけは絶対に嫌だと思った。

どんな状況であれ、それを選んだのは、間違いなく自分の選択だ。
これでちゃんと締め切りを守られなかったのなら。
こんなわたしを頼って遊びにきてくれたその仲間のせいにしかねない自分のことはもっと嫌いになる、そう思った。
周りの人が、わたしのことをどう思ったとしても、
自分の理想はまだまだだとしても、
今日より明日は、わたしの理想にちょっとでも近づきたい。


人にどう思われたとしても、
わたしは自分ができなかったことや、
嫌な思いをしたりしたことを人のせいにはしたくない。
目の前のやる、と決めたことは、心の状態がどうであれ、やりとげたい。

だからこそ、自分の機嫌は自分で取る、その方法を徹底的に追及したい。
今まではそこが全然できてなかった。
それはきっと、他人への期待があったから。

他人への期待が人を疲弊させる。
他人への期待が過ぎると、勝手に期待して、勝手に裏切られたなどと、失敗を他人のせいにして、ちっとも成長できず、そのうち他人に振り回されることで疲れ切ってしまう。


他人には期待してはいけないのだ、と思う。
他人に期待するからこそ、他人に振り回されて、自由に生きれないのだと思うから。

それには目の前の自分のやるべきことを、淡々とやっていくしかその方法はない、そんな気がする。


もしわたしが明日死ぬとわかってたとしても、わたしは目の前のやるべきことを淡々とこなしたい。
普通である日常が、おそらく何よりも特別なことである、それがわたしの答えだ。
そう思うと、今ここに生きているという奇跡が愛おしく思えてくる。
必死に生きていたとしても。
そこに違和感を感じたとしても。
悲しい想いをしたとしても。
みんな一生懸命でみんな優しい。

この広い地球上でわざわざ時間を使って、
わたしに関わってくれたという、そんな奇跡に感謝しか起らない。

こんなことを思うわたしは「慈善家」なのだろうか?
それともただの「偽善者」なのだろうか?

相手がそれを、どう感じるかは、相手の感じ方次第だ。
優しさと感じるか、怖いと感じるかなんか、伝えてみないとわからない。

だからこそ、わたしはコミュニケーションを最後まで諦めたくないと思う。


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