歴史寓話を鑑賞していかに歴史寓話と知るか プロット(・キャラクター)篇

はじめに

ある専門領域においてストーリーとプロットははっきりと異なるものとして規定されている。作中世界の時間軸に沿って出来事が提示されていく方式をストーリーと、時間軸に従わず適宜入れ替えて構成している方式をプロットと呼ぶ。時間というものは過去から未来に向かって流れているので、その反対、つまり回想シーンが含まれていればプロットと呼ぶことになるだろう。ただ、これは特定の専門領域内での厳密な議論における用法でもあるため、一般的にはプロットもストーリーも「物語の筋道」程度の意味合いで使用される語彙として把握しておいた方が無難であるかもしれない。(註1)

では「戦後日本にとって重要な歴史解釈・歴史認識や一定期間・範囲の国際・国内情勢をプロット化し、そこに登場する個人・各組織・諸集団やそれらに内在する諸特徴をキャラクター化し、それらを偶然として退けられてしまう可能性を排除するべく(物語内外問わず)様々な手法によって歴史や寓意と作品との関連性に向けて鑑賞者への注意喚起を企てつつ、物語全体を寓意として設計・解釈・構成する試み」(註2)の一部を為す「戦後日本にとって重要な歴史解釈・歴史認識や一定期間・範囲の国際・国内情勢をプロット化」するとはどういうことか。「日本視点の第二次世界大戦」を例に取ろう。A.先制攻撃により戦争が始まる。B.快進撃が続く。C.十分に勢力圏が広がる。D.広がり過ぎた勢力圏を持て余して維持が困難になる。E.戦力を整えて態勢を立て直した敵の猛反撃を受ける。F.負け続け、逃げ続ける。G.壊滅的劣勢にもかかわらず戦い続けようとする。H.核爆弾を投下される。I.降伏する。J.裁判で裁かれ、国のありようも変えられてしまう。K.戦後日本の始まり、という各段階を、作品を構成する世界観に応じた諸要素に置き換え、物語らしい展開と構造に再構成することである、と、とりあえずは説明できよう。(註3)歴史上の展開を物語上の展開に、国際的な事実や事件を架空・虚構の作品として移し変え、完成へと導く制作様式。これを一言で言えば「歴史のプロット化」となる。(註4)

「歴史のプロット化」によって作られた作品は「歴史寓話」となるわけだが、これまでの分析により歴史寓話のプロットにはいくつかの類型がみられることがわかっている。(註5)本稿ではそのような、歴史寓話のプロット類型パターンを提示、分析し、考察する。またその変異型や、より物語らしい類型との関係の仕方についても言及していく。そしてそれぞれの類型・変異型に対して特徴・性質を見極め、その効果を判別していくことになる。結論から言えば、プロットからだけでは歴史寓話と確定することはできないが、だとしてもプロットが歴史と無関係なものは歴史寓話と呼べる代物には決してならない。歴史寓話にとって「歴史のプロット化」は必要条件ではあるが十分条件ではなく、一定以上変異し再構成されたプロットが歴史上の展開の置換であるという根拠を十分に持たない場合、制作者側には歴史寓話として設計されていながら受容者側からはそう判断する材料に乏しく根拠も薄弱である、というように、制作側と受容側で作品分類上の判断不一致が生じるのだということを、以下に述べていく(文脈的要因による根拠の補完についても後述する)。さらにこの指摘は、作品を歴史寓話として根拠づける手法の飽和的導入によって極度に変異し切ったプロットであっても歴史寓話として成立させ得るという逆説をも浮かび上がらせるだろう。

物語にはプロットがある。歴史寓話にもプロットがある。だが、歴史寓話にとってのプロットとは、一体何なのだろうか。

現時点でわかる限りのそれについて、記述を始めよう。

分析1

ここでは「歴史のプロット化」の類型パターンを提示・解説し、(挙げられるなら)該当作品を例として挙げていく。もちろんこれらは現時点で記述可能なものだけを集めたに過ぎず、また常に細部まで同一のパターンが保持されているということもない。「歴史解釈・歴史認識」は同一の事件に対して複数の解釈や様々な視座からの認識を許容するものであり、また「一定期間・範囲の国際・国内情勢」の場合もその期間・範囲をどのように区切り採用するかによって描写される展開や関係性は異なるものとなるのであるから、同一の類型であったとしてもプロット構成に差異が発生する頻度は決して少なくない。

以上を念頭に置き、「歴史のプロット化」の類型パターンをみていこう。

1-1.単線型

歴史的事件を時系列に準じて配列し、プロット化した型。基本的に単純な構成であり、歴史的事件のプロセスや歴史的存在同士の関係性がそのまま架空の世界観に移し変えられている。短篇に多くみられ、単線的構成を長篇化すると全体を(ということは各セクションやプロセスを悉く)長引かせるか、(註6)作品の元となる歴史そのもののヴォリュームを増量する(対象を長期間、詳細化したり多数の解釈・認識を導入する)必要があるだろう。

例・石原慎太郎『太陽の季節』、大江健三郎『芽むしり仔撃ち』。

1-2.循環・反復型

単線型を反復し、一作品内で同一期間・範囲の歴史認識・歴史解釈を繰り返し描写する型。一話完結型やひとつの目的を達成するまでを○○篇とする連載形式との相性が良いようで、週刊・月刊など定期連載の漫画などに散見される。ヴァリエーションが少ないと早期にマンネリ化するため、いかに多くのヴァリエーションを持つかが鍵であるようだ(ヴァリエーションは、元となる歴史解釈・歴史認識の詳細さ、作品化する際に具体的に選択され用いられる要素・表象の豊富さにより得られると思われる)。循環し反復がはじまるとき、場面設定や新要素導入などのための接合部から展開される様子がみられる。

例・赤塚不二夫『ひみつのアッコちゃん』、横山光輝『魔法使いサリー』。

1-3.回顧型

展開の途中でそれまでの歴史の流れと断絶した過去の歴史展開が挿入される型。回想シーンのような機能を果たす寓意構成。第二次世界大戦の展開を一通り描いた後、なぜそのような戦争になったのか、戦前から開戦までの歴史展開を描き、戦後へと移る構成などがある。歴史そのものの順序を入れ替える構成は単純な単線型とはまた違った印象のものとなろう。

例・TV版『魔法少女まどか☆マギカ』、舞城王太郎『阿修羅ガール』。

1-4.入れ子・内包型

全体がひとつの歴史寓話としてのプロットでありつつ、部分的にコンパクトな歴史寓話が含まれている型。含まれる側の歴史寓話は大抵複数だが、循環・反復型と異なり作品全体が一本の線で繋がる歴史寓話構造を持つ。だが全体の流れは実際の歴史に比べて細部は一致せず、抽象化された大まかな流れとして描かれているようだ。

例・手塚治虫『ロストワールド』(一部)、(註7)『新世紀エヴァンゲリオン』(後述する重合寓意・仮想寓意の使用を含む)。

1-5.複線型

ひとつの作品内に、同一の歴史的存在の寓意が複数存在し、各キャラクターのそれぞれの展開が歴史上の展開の寓意として成立している型。ひとりのキャラクターが複数の歴史的存在の寓意を担う重合寓意や、(註8)あるキャラクターを特定の歴史的存在の寓意であると前提したときに発生する、特にその歴史的存在の寓意として示されてはいないにもかかわらずそのような寓意として仮に認識されてしまう仮想寓意によって、(註9)描写されているようである。多重構造により複雑化してヴァリエーションも生じやすいと思われるが、反面歴史とプロットの精密な対応関係に欠け、判別は難しい。

例・『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』、平野耕太『HELLSING』、西尾維新『少女不十分』。

1-6.連環・輪唱型

仮想寓意・重合寓意を前提とする対位法的構成を持つ型。表層的にはあるキャラクターが新たに登場したキャラクターに殺され、さらに登場した別のキャラクターがそのキャラクターを殺し、またさらに新登場したキャラクターがそのキャラクターを殺し、という具合に次々に新キャラが現われては殺し殺されていく連鎖的構成なのだが、これは「大日本帝国の奇襲成功(勝利)」と「アメリカの戦勝(勝利)」をひとつのシークエンスに重合化し、結果必然として「大日本帝国の敗戦(敗北)」が不可避となるキャラクター達を描く構成である。「A=日」が「B=米」に殺されるとき、同時に「B=日」としての勝利でもあるため、ほどなく「B=日」として「C=米」に殺さ
れるという伏線になっているのだ(無論、必ずしも殺す殺されるの関係が必要なわけではなく、別の表現でも成立する)。このとき「プロット化された歴史」の輪は繋がっており、一小節目の次には必ず二小節目が歌われる。

例・つげ義春『罪と罰』、B・ボンド、F・N・モーゼズ「デイ・オブ・ザ・ロブスター」『ニンジャスレイヤー』深見真『拷問魔法少女ドゥームズデイあやね 第1~4話』、椎名高志「弱肉強食」「さよならは星の数…の巻」『Dr.椎名の教育的指導!!』。

1-7.複合型

上述した複数の類型を混合させて成立させている型。入れ子・内包型、複線型などはそもそも複数のプロットを混合したものであるが、類型として比較的分類が容易いと考え独立した類型と見做した。複雑化させやすくヴァリエーションを生み出しやすいが、その分プロットと歴史の接続が粗漏になりやすい傾向があるように見受けられる。

1948年発表の作品から数えて65年余り、物語の制作方法や内容、出版事情やメディア展開など幾度か様変わりして当然の時間が過ぎ去った後にようやく本格的な分析と記述を重ねていくなかで、発表時期やジャンル・メディアと形式の単純さ・複雑さとの関係に筆者は非常に強い興味と関心を覚えた。そこで類型的に把握できる分析手法を確立すべく、シンプルに分類可能ないくつかの型と、それらの型および型の一要素を為す部分との混合により成立する「歴史に基づいたプロット」、つまり複合型との判別をあえて試みたというのが、本稿執筆の動機のひとつである。こうした分類は自ら分析を試みようと欲する鑑賞者諸氏にはきっと有益であろうと信ずる。

上記したほかに存在が想定される類型としては、遡及型、再来・再来対策型があるが、詳細は言及しない。

分析2

「コナン・ドイルの短編に共通する概念を図式化」し、(註10)物語においては「虚偽の認識がなされ、そのあとで真相が解明される」ことで「完結性」が得られると主張したヴィクトル・シクロフスキーは、(註11)物語の型の構造についていくつかの指摘をしている。ここではシクロフスキーの指摘をガイドに構造型を解説し、「物語のプロット化」の類型パターンとそれに該当する構造を持つ「歴史寓話」を例示していくこととしよう。それによって歴史寓話がいかにして物語らしさを得ているのかを検証することができるだろう。

2-1.逆転劇

「物語を成立させるためには、一つの行動だけではなしに、それに逆行する動き、なにか一致しないようなものが必要となる」。(註12)ここで指摘されているのは関係性や行動の逆転である。「役割」の「交替」や「正反対の性質」が伴い、構造は「環状」もしくは「螺旋状」となっており、(註13)状況の変化と繰り返しがドラマを構成する。第二次世界大戦において枢軸国は逆転負け、連合国は逆転勝ちの展開となったため、その「期間・範囲」を選択した歴史寓話も同様の構造を持つ。

例・赤塚不二夫「雪のお山は大さわぎ」『ひみつのアッコちゃん オリジナル版 スターになあれ!の巻』。

2-2.数珠つなぎの方法

「普通、物語は展開してゆくにつれて複雑になってゆく段階的な構成の組合わせから成り立っている」。(註14)「完結したモチーフをもった物語がつぎからつぎに前後して並べられ、そしてそれらはすべて、同じ一人の登場人物がまとめているというやりかたによって結合されている」このタイプの物語は、(註15)典型的な一話完結形式として雑誌連載やテレビのレギュラー番組と親和するだろう。また「○○篇」という物語内パート分類も持つ作品はこの型によく適合し、歴史寓話の類型パターンにおける循環・反復型はこの型に浸透しているものと推察される。

例・玄太郎『男!日本海』、ちょぼらうにょぽみ『あいまいみー』、速水螺旋人『スパイの歩き方』。

2-3.入れ子・内包型

「枠組をもった物語の種類、あるいはもっと正確に言うならば、独立した物語を全体の物語のなかに挿入する方法」。(註16)「もっともよく用いられる方法というのは、なんらかの行為の実現を阻むために物語を語って聞かせるということ」とされている。(註17)歴史寓話における類型パターンの場合と異なり、シクロフスキーによる規定を遵守すると「挿入される物語」は「全体の物語」と関係なく独立していなければならないため、複数のエピソードが個々に歴史寓話として成立していながら全体としてひとつの歴史寓話をも構成するという型はこの分類には含まれないことになる(例えば『新世紀エヴァンゲリオン』)。

例・つげ義春『四つの犯罪』。

2-4.時間の流れの中断・秘密

「一つの時間の中断、つまり、なにかの事件の描写を省略し、事件の結果がすでに明るみに出たあとになってはじめてその描写が出現する」形式の型。(註18)シクロフスキーは謎解きについて論述しているが、回顧・回想によっても時間の流れは中断され、謎解きでなくとも秘密が暴かれる際には過去の経緯が語られるものであるから、歴史寓話の回顧型は物語の構造類型としてはこの型に分類・把握されていると言える。(註19)

比較してみると、(段階的構成の展開として)数珠つなぎの方法に単線型、循環・反復型、複線型が含まれ、逆転劇に(第二次世界大戦の寓意としての)単線型、連環・輪唱型が、「枠組をもった物語」として入れ子・内包型が、時間の流れの中断・秘密の型は回顧型に対応し、それらの物語形式の複合が複合型と見做されるだろうと思われ、歴史寓話構造類型とそのヴァリエーションは物語構造類型のヴァリエーションとほとんど見分けがつかないほど一致していることがわかる。つまり「歴史のプロット化」の際歴史上の展開をある水準にまで変形・単純化した結果、(註20)歴史寓話構造類型パターンは普遍的な物語構造類型パターンに近似してしまったのである。

分析3

歴史寓話をより一般的な物語構造と比較するために、最も頻繁に析出されるモデルである「日本視点の第二次世界大戦」をプロット化するパターンから考えてみよう。大きく分けて勝利・優勢の前半から敗北・劣勢の後半へという構造を持つものを広く探索してみると、キリストやスパルタクスの生涯、森鴎外『舞姫』や川端康成『伊豆の踊子』など戦前はおろか紀元前の故事にまで遡ることができる。逆転のモチーフがいかに普遍的であるかがありありと示されるこうした考察からは、歴史寓話という試みが既存の物語構造に対してどれほど馴染みやすいものであったのかを把握すると同時に、プロットのみによって歴史寓話をそうでない作品と区別することはまず不可能であると結論づけられるだろう。このような、プロットのみによる歴史寓話の立証不可能性を「プロットの本質的脆弱性」と呼ぶことにする。

歴史寓話を歴史寓話と判別するためには「それらを偶然として退けられてしまう可能性を排除するべく」「歴史や寓意と作品との関連性に向けて鑑賞者への注意喚起を企て」る「(物語内外問わず)様々な手法」をその根拠とすることが不可避なのではないか。(註21)特に創作上の要請によって構造類型のヴァリエーションが生じている上、より物語らしい構造となることは普遍的展開との同一化と同義であり、分類不能となるのだから。(註22)

しかし、その点についてはさらなる検討を要するものと思われる。何故なら、歴史上の展開をプロット化した段階で既に普遍的物語構造パターンと十分に類似し判別不能に陥っているのであれば、そのヴァリエーションが同様に判別不能であることが状況をより悪くしているとは言えないからだ。ヴァリエーションがあろうとなかろうと判別不能性は変わらないのだから、究極的には、歴史寓話構造のヴァリエーションでさえあれば極限にまで変形させたとしても歴史寓話として成立し得ると考えられる。「企て」によって歴史寓話性を確保してさえいればどのような構造ヴァリエーションであっても歴史寓話として確定可能であるという前提に立脚すれば、普遍的な物語類型との構造的類似は理解の障害にならない。それどころか、歴史寓話という方法はプロット面において創作上の要請によく応える方法であるという認識に至ることになる。

「歴史のプロット化」は、その立証不可能性によって、存外高い自由度を持つ。

おわりに

筆者はこれまでにもいくつか「企て」のパターンを提示してきたが、なかでも今回の論題と密接な関係を持つであろう「展開・文脈上の刻印」についてここで改めて触れておきたい。「展開・文脈上の刻印」とは、「自覚の有無にかかわらず、歴史寓話(もしくはその源泉たる歴史)そのもの、またはそれ同様あるいは類似の構造・展開を持つ創造物及びその諸要素に基づく『注意喚起の企て』」のことであるが、(註23)自覚的な、歴史寓話そのものの、諸要素、として「作者自身」を挙げることがその範疇に入る。このことは、「既に自覚的に歴史寓話を制作した作者による作品であるから歴史寓話である」という判断を許すことになるかのように思われるが、実のところ、
そのような判断が妥当かどうかはひとえに歴史寓話作家としての作者の腕前にかかっている。もし作者が上記したような「プロットの本質的脆弱性」に無頓着であったなら、プロットが何かしら歴史寓話の根拠としての判断材料となることを過剰に期待し、「企て」の質と量を過小にしてしまい、結果精密な分析に耐えない不十分な作品であると結論づけられることにもなりかねない。(註24)「企て」とは、鑑賞者にとって歴史寓話を理解する経路の道標であり、制作者にとって作品を歴史や寓意に繋ぎ止める舫い綱なのである。

受容者が歴史寓話をそうと知るためには、対象となる歴史上の知識を得る必要がある。第二次世界大戦の場合、それに対してそれなりの頻度で意識を向けさせられる機会が存在することが大半であり、情報収集上の障壁もさしてないため、一般的に入手が容易な内容であるとしてよいだろうが、一般常識とするには至らないと言うべきかと思われる。その水準での容易さと機会があるのであれば、作品理解が先行したとしても、いつかの時点で歴史と作品との関係性について疑問を抱き追求するタイミングが訪れることを不自然とも幸運とも呼ぶべきではないだろう。ともかく、受容者は歴史を学び、作品と照合し、歴史寓話を理解する。そのときプロットは歴史との関連性を認識するための条件のひとつに過ぎず、その関連性に対して確信を抱くのは「企て」の質と量によって、なのである。「魔法の力」に準えて言えばそれは、単なる自動車名ではなく「統合する」を意味する英語のintegrateを語源とする造語「インテグラ」や、スペイン語で「天の」「天空の」「神の」「天国のような」という意味を持つcelicaに由来する「セリカ」という自動車名が、(註25)凝縮した密な「企て」として、作品と歴史を結びつけるイメージとして強く作用する。

トマス・スターンズ・エリオットは「全く異なった二つのもの」を「結合」するものを「奇想」と呼ぶ。(註26)「奇想そのものは、概ね、とっぴなイメジで、異質なものをもって回って結びつけ、隠喩や直喩に手を入れすぎる」、(註27)「奇想はそれ自身のために、そして、また、もって回った比較の知的喜びのために使われる」。(註28)そしてエリオットは「奇想」によって生じる「もって回った比較の知的喜び」を「機知」と表現する。「機知、回りくどい巧妙さ」(註29)、「この巧妙さの知的喜びは『機知』と呼ばれるものである」、(註30)「我々の中に引き起こされた恍惚の火花は、その二つのものを結合する力の感覚である」。(註31)またエリオットは参照しながら以下のように記す。(註32)「このような感覚をサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)は機知(wit)と呼び、彼の『カウリー』論の中で『不調和の調和』また『最も異質な観念を暴力で結び付けるもの』とし形而上詩の特質とみた」、(註33)「ジャーン・ルワゾー氏は、カウリ―に関する網羅的な研究の中で、彼の想像力は『幻影にとらわれた熱狂によって鼓舞されるのではなく、十七世紀がその時代精神を‘機知’と呼んだもの、つまり、事物の隠された関係を見出だす分析機能によって燃え立たせられる』と述べている」、(註34)「オックスフォード大辞典は『機知』という言葉を『楽しませる仕方で、光り輝き、火花を発するものを言い表わすことの言及』と規定している」。(註35)

以上のように説明される「全く異なった二つのもの」を「結合」させる「エリオット的奇想」と「機知」の感覚は、受容者が歴史寓話を理解していく上で非常に強烈な印象を刻んでいく。そしてそのような意味のみでなく、制作者にとってもこのふたつは非常に重要であると言えるのではないか。「『詩人の機知、あるいは(難しい区別を使わせて戴くなら)書いている機知は、作家の想像力の機能以外の何物でもない。その働きは、すばしこいスパニエルのように、記憶の野原を探し回り、さまよい、駆り立てた出所から飛び立たせるものである。あるいは、このような比喩を使わないで言うなら、想像力が、…… 表わそうとするこれらの種類、観念を、すべての記憶に渡って見つけ出そうとすることである』」。(註36)

加えて、このような「エリオット的奇想」と「機知」の観念を用いて分析を新たなステージの上で展開することができる。つまり、歴史そのものの展開と歴史寓話上の展開とが対応しながら異なっていく、「歴史-プロット間におけるエリオット的奇想」とでも呼ぶべき関係性と操作を俎上に載せること。また「歴史に対する厳密性を重視し構築されたプロット」と「歴史から逸脱しながら成立するプロット」とのあいだの差異と同一性。「全く異なった二つのもの」の「結合」と「その二つのものを結合する力の感覚」、そして「事物の隠された関係を見出だす分析機能」にして「最も異質な観念を暴力で結び付けるもの」、こうした観念を新たな前提として迎え入れることによって、「プロットの本質的脆弱性」はプロットと歴史がいかに異なるか、プロット同士が同一の歴史的源泉からいかに異なった構成を生じさせ得るか
について肯定的な姿勢から分析することを可能にする概念となるだろう。

そしてそのための選別基準となるのは「企て」の質と量なのである。「プロットの本質的脆弱性」はやはりひとつの障壁でもあり、それを突破するにはある水準を越えた質と量が求められるはずだ。(註37)歴史寓話において「企て」こそが異なるふたつのものを結びつけ、知的喜びと恍惚の火花を生み出す。であれば歴史寓話作家にとって「企て」をいかに取り扱うか、その手際こそ、技量を問われる部分と言えるのではないだろうか。少なくとも歴史寓話読者が「企て」の内容を、その「エリオット的奇想」と「機知」を、歴史寓話作家の腕前の、実力や競争力のバロメーターとしていると考えることはそれほど的外れなこととは思われないのである。

歴史寓話を鑑賞していかに歴史寓話と知るか。プロットは、歴史寓話を成立させるという観点からは整えるべき条件のひとつでしかないが、そうであるが故に脆弱性に囚われることなく変異と多様化を享受する。そして、ただ「企て」のみが作品を歴史や寓意へと結びつける決定的な因子として残るのだ。脆弱性におびやかされた指標が。



(註1)ちなみに、筆者の印象ではプロットは制作時の構成、ストーリーは完成した作品の持つ構成、というイメージが強いが、(特に断りがない限り)あまり用法にこだわってはいない。

(註2)比那北幸「手塚マンガの風刺性を検証する――『地底国の怪人』の場合――」参照。

(註3)プロットはその構成要素にキャラクターが含まれるため、「キャラクター化」も同時に行われていることに留意。

(註4)前述と合わせて、「歴史上の存在のキャラクター化」を伴うことを指摘しておきたい。

(註5)比那北幸「手塚治虫漫画分析001『ロストワールド』」参照。

(註6)「知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する≪非日常化≫の方法が芸術の方法であり、そして知覚過程が芸術そのものの目的であるからには、その過程をできるかぎり長びかせねばならぬがゆえに、知覚の困難さと、時間的な長さとを増大する難解な形式の方法が芸術の方法であり、……」。
V・シクロフスキー、水野忠夫訳「方法としての芸術」『散文の理論』せりか書房、1971年、p.15~16参照。しかしながらこの引用部のすべてに筆者が賛同するわけではないことをお断りしておく(知覚過程だけを重要視するのではなく知覚内容の影響力もやはり無視できないと考えるがゆえである)。

(註7)比那北幸「手塚治虫漫画分析001『ロストワールド』」参照。

(註8)比那北幸「手塚マンガの風刺性を検証する――『地底国の怪人』の場合――」参照。

(註9)比那北幸「手塚治虫漫画分析001『ロストワールド』」参照。

(註10)V・シクロフスキー、水野忠夫訳「秘密をもった短篇小説」『散文の理論』せりか書房、1971年、p.261~263参照。

(註11)所謂前フリとオチの関係である。V・シクロフスキー、水野忠夫訳「短篇小説と長篇小説の構造」『散文の理論』せりか書房、1971年、p.123~124参照。

(註12)前掲書、p.116~117参照。

(註13)同前。

(註14)前掲書、p.127参照。

(註15)前掲書、p.142参照。

(註16)前掲書、p.136参照。

(註17)同前。

(註18)V・シクロフスキー、水野忠夫訳「秘密をもった短篇小説」『散文の理論』せりか書房、1971年、p.225~226参照。

(註19)だが、物語の表面上に時間的な中断が描かれておらず、寓意的に回顧しているのみのケースも考えられるため、判断は常に作品と歴史との対応関係を逐次比較することによって下されるのが適切と思われる。

(註20)非常に複雑で多彩な側面を持つ歴史的大事件に関して、何ひとつ省略せず厳密に寓話化することなど可能だろうか。

(註21)比那北幸「魔法の力」参照。

(註22)前述したようにプロットはキャラクターを含むものだが、キャラクターのすべてを含むわけではない。ゆえにキャラクターの名称、図像、動作、台詞、性格、思想信条、好み、血液型、特技、癖、弱点、服装、使用する物などが「企て」として機能していることと矛盾なく両立する。キャラクターは歴史上の存在の寓意としてプロット上で役割を果たしながら、作品を歴史や寓意と接合しつつ、商業や文化を形成していく非常に興味深い対象である。

(註23)前掲記事参照。

(註24)「企て」の脆弱化の懸念については、前掲記事参照。

(註25)前掲記事参照。

(註26)村田俊一訳「アンドルー・マーヴェル」『T・S・エリオット文学批評選集――形而上詩人からドライデンまで――』松柏社、1992年、p.36~37参照。

(註27)村田俊一訳「我々の時代のダン」『T・S・エリオット文学批評選集――形而上詩人からドライデンまで――』松柏社、1992年、p.270参照。

(註28)村田俊一訳「十七世紀の信仰詩人達、ダン、ハーバート、クラッショウ」『T・S・エリオット文学批評選集――形而上詩人からドライデンまで――』松柏社、1992年、p.176参照。

(註29)前掲書、p.180参照。

(註30)前掲書、p.176参照。

(註31)村田俊一訳「アンドルー・マーヴェル」『T・S・エリオット文学批評選集――形而上詩人からドライデンまで――』松柏社、1992年、p.37参照。

(註32)以下、該当段落の引用は孫引きである。

(註33)前掲書、p.42参照。

(註34)村田俊一訳「カウリ―の二つのオードに関する覚書」『T・S・エリオット文学批評選集――形而上詩人からドライデンまで――』松柏社、1992年、p.368参照。

(註35)前掲書、p.369参照。

(註36)ドライデン『驚異の年』からの孫引きである。前掲書、p.363、373参照。

(註37)その水準の正確な測定もまた重要な論点となり得るだろうが、ここでは言及しない。ただ、冗長性(redundancy)の確保は目的に適うことと思われる。

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