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【短編小説】21グラムの願い【雛杜雪乃 / 天使 / 堕天 / 魂】

「私達の翼は、大いなる主が我々に与えてくれた、天使達が世界中を駆けるための誇りなんだ」

 流星が真っ黒なキャンバスを駆ける夜、僕の元に墜ちてきた天使はそう言った。

 夢を見た。天使である彼女━━━━が、幸せそうに笑い、人間の俗っぽい遊びを堪能して、栄養補給でなく、娯楽として食事を楽しむそんな夢だ。……彼女が天使である限り、夢は叶わないと言うのに。
 夢を見た次の朝、彼女は寝床にいなかった。寝ぼけ眼をこすりながら部屋を見渡せば、ベランダの窓ガラスに張り付いている彼女を見つけることができた。ようやく朝日が建造物の向こうから顔をのぞかせるのだろうという時間帯だというのに、早起きな事だ。ちなみに、天使である彼女に睡眠は不要なんだけど。
 天使である彼女の奇行は今に始まったことではないけど、ああも空に注目して見つめるだなんて珍しい。何かを観測しているのだろうか?

「……いったいどうしたの? こんな朝早くから窓に張り付いたりして」
「朝早くからって……前から言ってるけど私には睡眠は必要ないんだって……いや、それはいいや。なんでもない。
 ちょっと空が恋しくなったから、眺めていただけだよ」
「へぇ、空がね」

 彼女の言葉を鵜呑みにし、なるほどと口に出そうとしたところで眼を開く。彼女は、空が恋しくなった、と言ったか?
 天使は、人のようでありながら人ではない。感情らしい振る舞いを見せているものの、感情らしい言葉を持つことがない。あくまで人の形をしただけの機能の塊。それが天使なんだ。理解はしていても、感情を実感として表さなかった天使が、恋しいなどという、郷愁の言葉を突然口にしたのだろうか?
 慌てて掛布団をはがし、彼女の両肩を掴む。

「今何て言った?! 恋しい? 聞き間違いだよね!?」

 早口に彼女に問いかける。何時ものように、話を聴かない彼女をこちらに向かせるため、回転椅子に座らせていたかのように肩をつかんでこちらに引っ張る。
 大丈夫。彼女は『天使の羽』で浮いているのだから、何時も通り、何の抵抗もなく僕の方を向き、何時ものように自然で違和感の無い作り笑いを見せてくれる。
 ━━そのはずだった。

「痛っ?!」

 彼女は顔をしかめながらこちらを向いた。彼女が痛がるのは当たり前の事だ。だって彼女の脚は地面についたままで、一ミリたりとも浮き上がっていないんだから。
 目を凝らせば、彼女には天使としての証明がない。ハイライトに擬態させた天使の輪も、窮屈そうに折り畳んでいるはずの天使の翼も、何一つとして彼女には見受けられない。
 髪には、不自然に焦げ付いたような円環がハイライトにまぎれている。
 困惑と緊張と混乱が頭を駆けめぐる。呼吸は細くなり、もはや息をすることさえ忘れそうだ。
 嘘だ。ダメだ。あれは夢なんだ。僕が願ったのは彼女の幸せなんだ。

「……もう、痛いなぁ。私みたいな美人を無理矢理振り向かせようだなんて、少し乱暴じゃないかい?」

 言葉と表情は一致していなかった。冗談めいた非難の言葉には怒りの表情を浮かべ、人として一般的な表情━━今なら怒りの表情━━を浮かべるように機能が搭載されているはずだ。その彼女は今、泣きそうな表情と雰囲気で微笑んでいるのだ。そのミスマッチな言葉と表情は、天使にはそぐわない。

「嘘、だろ……? だって君は、天使が堕天するなんてあり得ないって━━」
「一度だけ」

 彼女は、僕の言葉をあえて遮るように強い語調で話を始めた。正しい天使であれば、人の話を遮らない。天使は神の言葉を届け、人の願いを掬い上げるのが機能だからだ。
 絶対にやらないはずの行いが、彼女が天使ではなくなった━━堕天したのだという事実を突きつけてくる。
 彼女は泣いていない。しかし、潤んだ瞳を瞬かせる彼女は、自らの不調を確かめながら声帯を調整し、たどたどしく声を絞り出す。

「前例は、あるんだ。高位の天使が……数多くの人類に接し、ふれ、ふれあい、導いた末に、堕天した。彼は、あまりの罪深さに悪魔にまでやったけど、私は違うみたい」
「…………」
「あの時には理解できなかったけど、今なら分かる。人に触れて、互いを知り、願われて今に至るんだって」

 息を飲む僕の目の前で、やっと彼女は表情を変えた。しかし、前までのように作られた笑顔は、もう二度と浮かべられないのだろう。
 彼女は、天使にあるまじく、笑いながら泣いていた。

「天使は魂を得ると堕天するんだ」
「━━っ!」

 彼女は笑っている。何一つ、笑えることなどないと言うのに。
 僕は強く、強く歯噛みした。ギリギリと軋むこの音は、決して届くことのない、大いなる主サマへの心の底からの罵倒と、怨嗟の声だ。

「人の世界では、魂の重さは21グラムなんだってね」

 それは、僕が以前ジョークとして話した逸話だ。遥か過去の、科学がいまほど発達していなかった時代の、魂の計量のお話。
 僕はそれを、たちの悪い冗談だと笑った。今は、耳を塞ぎたくなるほどに、聞きたくない言葉でしかない。だって、そうだ。

「私の幸せを願ってくれた人の想いは、たったそれだけなハズがないのに」

 魂の重さも計れず、自分の願いの重さも計れない。被造物の僕達には、そんな愚かしさがちょうどいいのだと、僕は自分の胸中を見つめた。答えは、目の前にある。

 僕の天使は、たった21グラムの重さで、僕の元に堕ちてきた。

「……あれ? 君、日記帳なんてつけていたんだね。てっきり、私は君の事ならなんでも知ってるんだと思ってたんだけど」
「あの日からは何でもじゃないだろ。……これは、あの日から━━」
「ああ、私が天使じゃなくなっちゃった日の事ね。へぇ? そんなに後悔してるんだ? やっぱり君は乙女と言うか、他人に対して繊細な感受性の持ち主だよね」
 
 僕は深くため息を吐き、半ば非難めいた視線で彼女を見つめる。しかし、彼女はおどけたような表情で笑い、日記をめくる。
 
「いいんじゃないかな。おかげさまで私は毎日幸せになれているんだし」
 
 僕達の部屋には、体重計が置かれている。天使の輪も、翼もなくなってからは、僕の目の前で体重計に乗って、記録を着けるのが日課で、人間である証明なのだそうだ。
 記録が詰まったノートを片手で振りながら、彼女は朗らかに笑う。
 
「さて、君のお願い事は何グラムだったでしょうか?」

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