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「私を傷付けていい人なんていない」なんて知らなかった。

傷付ける、とは本当に辛い事である。

傷付く、とは違う、そこに何かしらの意図がある「傷付ける」は、本当にキツイ。

私は、別に殴られ続けてきたわけでもないし、それなりに幸せに暮らしてきたつもりだったけど、

最近読んだ本の中に「あなたを傷付けていい人なんて、誰もいない」と書かれていて、ハッとした。

「傷付けられる程度の存在」という日々​

なにか傷付く事を言われたり、されたとき、私は「あぁ自分はこんな扱いを受ける程度の人間なのだ」と毎回反省をしていた。

そして「どうすればそんな扱いをされない人間になれるんだろう」「もっと努力しなければ」と思っていた。

ときには反省文としてそれを文字にさせられていたし、相手の好きな料理を準備したりお金を渡す事で反省を示したりしていた。

ときには機嫌を伺い、相手に媚び続けてきた。

相手の気持ちはさておき、私はきっと「そんな程度の人間」から少しでも上に上がりたかったから、必死で目の前にいる、なぜか怒りに満ち溢れている相手を満たす事で、償おうとしていたのだろう。

目の前にいる相手から認められれば、私は「そこ」に行けるはずだった。

私以外の人がいる、「そんな程度の扱いをされない人間」のいるそこに、自分も入れるまで頑張ろうと、本気で思っていた。

「傷付けられて当然」な私からの脱出

離婚と借金、モラハラ、出産育児でボロボロになった私は「流石にこれでは生きていけない」という事で、いろんな本を読んだり、人に話を聞いてもらったりした。

自分の人生を振り返るなかで、なぜ私は誰かから傷付けられる事を受け入れてしまうのだろう、と気付く。

嫌な事を言われたら「嫌だ」と言う、もしくは言えなくても「嫌だな」と心で感じてそれを受け入れる、と言う当たり前の事を知らなかった。

だから、本に書いていた「あなたを傷付けていい人なんて、誰もいない」と言う文章を読んで、眼から鱗だった。

「そうなんだ。」

と、そこから、いろんな事に気付いていく。

あぁ、あのとき言われた言葉は、あのときのあの人の行動は、私への扱いは、おかしいものだったんだ。

そして私は、あのとき、それを、否定してもよかったんだ。

「私がおかしい」のではなくて「相手がおかしい」だったんだ。

あぁ、そうだったんだ…知らなかった…。もう30年以上生きてきたのに、こんな当然のような事を私は知らなかったんだ。

愕然としながらも、自分の人生が徐々に解決していく感覚は、今でも忘れられない。

空いていたパズルのピースがちょっとずつ埋まってきて、景色が浮かんでくる感じだった。

自分を傷付けるという事。

「誰も私を傷付けてはいけないんだ」と分かっていると、私に攻撃をしようとする人や場所から、感覚的に離れる事ができるようになった。

そして「意外と私には価値があるんじゃないか」と思えるし、自己肯定感も身に付く。

「自分なんて価値がない」「暴力を受けて当然の人間」と自分で思ってしまう事も、また自分への暴力である。

自分を可愛がり、大切に扱う事ができると、やっと他人へも本当の意味での優しさを与える事ができる。

今、余裕を持って子育てをしたり、他人とコミュニケーションが取れるのも、全てこの思考の変化が軸になっているから。

本当の意味での優しさを知ると、自然と周りには居心地のいい場所ができあがる。

今まで気付けなかった、周りの人の優しさにも触れる事ができる。

もう、傷付けないし、傷付けられない。

自分の被害ばかりを書いているけれど、私だって当然人を傷付けてきた。

気付かないうちに誰かを傷つけたことはあると思う。

結局、そういう風に、人にした事が返ってきたり、そうやって気付かされたり、人生はその繰り返しなのかな、とも感じる。

胸が痛むけど、私も傷付いたし、人を傷付ける意味も、今やっと知る事になる。

これからの人生は、傷付く事はあっても、できるだけ誰も傷付けたくないな。

誰かを攻撃するような人に自分がならなければ、そういう人との関わりもなくなるだろうし、私が本当に行きたかった、価値のある人間のいる場所に、足を踏み込めるような気がしている。

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