指標・評価について

誰しもが評価される

人間は誰しも評価にさらされる。おそらくはじめは性別だろう。現代では少ないかもしれないが。
女の子か男の子か、それによって家族の喜びようが異なる。
時代によってその評価方法は異なる。
昔なら男子なら跡継ぎになるなど言われていただろうが、現在はそこまで重要でない。

それからは情報処理力、情報編集力、基礎的人間力(手先の器用さ、運動能力、道徳心、生活能力、協調性、自主性、愛想など)が評価されてくる。これらは生まれつきのものもあれば、環境により身につくものもある。
従来の学校教育では、情報処理力が重要視され、基礎的人間力などは雑に扱われてきた。
だから、情報処理力の序列によって大学への入学が決定し、その後の将来もある程度決まるという考え方が多かったと思う。
これには時代背景も関係しているだろう。戦後は男性が会社で限界まで働き家計を支え、女性は家庭で子供を育て、将来の“社会の歯車”を量産することを目的としてきたためだと思う。

しかし、昨今は変化が起こっている。今までのライフスタイルの崩壊が起こり、情報処理力が最優先ではなくなっている。要は答えが一つの問題を解決しているだけではダメになってきたのである。“自分で考えられる”人材が重要になってきている。
(“自分の頭で考える”これはよく使われる言葉だが、上司が“なんで相談しないんだ”とセットにして理不尽を生み出す言葉ともなっているので、今回はその意味でないことを断っておく。)
ネットの発達により、基礎的人間力も重要になってきた。
道徳心がない人間は炎上するようになった。
独身化が進み、生活能力が男女問わず重要になってきた。
AIにない人間力を身に着ける必要性が認識されるようになってきた。
“教科書に載っていることを丸暗記する”能力ではなく、“情報をもとに周りの人と協力しながらどう考えるか”が肝要になってきたと思う。
まとめると、情報処理力以外の能力が機械知能の発達で求められるようになってきたという事だ。

重要になってくるであろう“指標・評価”

そこで、“指標・評価”が重要になってくる。
今までは情報処理力を一番に据えていたので、“学力”、“記憶力”をどう測るかが肝心であった。これらは部分的になら測りやすい。
しかし、これからは“応用力”(これまでもあったが、さらに)、“協調性”、“自主性”をどう測るかが大切になってくるだろう。これらは評価しにくいことが問題である。

それは就活の世界の話だろうが、これまでの知識一辺倒の社会が見直されてもいいのではないだろうか。
情報処理力が劣っていても、起業して成功する人、第一線で活躍できる人、スポーツや芸術で名を上げる人がいる。
つまり、情報処理力以外がいわゆる“成功”につながるケースが少なくない。逆に情報処理力が高くても“高学歴ニート”という言葉があるように、必ずしも“成功”につながるわけではない。

学力の指標としてよく挙げられるのが、IQである。

「単に学習で覚えた知識や学力ではなく、様々な状況や環境に合理的に対処していくための土台となる能力を知能と捉え、それをわかりやすく数値化したものを知能指数と言います。」

知能指数 / IQ(ちのうしすう)── e-ヘルスネット

と説明があった。

しかし、これにも限界がある。

「その算定方法や検査の回数によって数値が若干変わること、また、言葉の能力や家庭環境などでも異なることから、あらゆる知能を網羅しているとは言えないため万能ではありません。」

知能指数 / IQ(ちのうしすう)── e-ヘルスネット

「知的障害者の療育手帳取得や就学時の健康診断書、個別学習支援計画作成・指導などに利用されています。」

知能指数 / IQ(ちのうしすう)── e-ヘルスネット

とあることから、部分的な学力を表す指標となる。そもそもが低知能者の早期援助や診断をするための指標であり、学力を図るわけではない。


平成27年度政策評価に関する統一研修(地方研修) 客観的かつ具体的な政策効果の把握及びその ための適切な目標・測定指標の設定について <演習型研修> ~成果指標と目標値の効果的な活用に向けて~
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数値化するにあたっては、測定でき、「客観的に表現でき、加工・比較でき、わかりやすい」必要がある。
その過程で表現できない部分が存在する。
完璧な指標は存在しない。
それを理解したうえで、0%の評価よりはまだ評価ができているために利用する。

ある指標を妄信すると、指標のみで誰かを絶対的に評価してしまいかねない。人間というのは一面で判断できるようなものでなく、球体のようなものである。機械ですら平面ですら、直方体ですらないかもしれない。比喩であるので、理解できない場合には無視していただいて構わない。
言いたいことは、情報処理力が高いから“頭がいい人”、運動能力が高いから”スポーツ万能な人”、何も突出したものがないから、“無能な人”と決めつけるのは早計であるということだ。

指標というのは誰かの一面を投影したものに過ぎず、いくつかの指標を組み合わせてもすべての面を投影できるとは限らない。そして内部は投影できない。
そもそもが人の心や知能を完全に解析できていないことからも明らかなように、人の能力を完全に理解することは困難である。

情報編集力の評価

特に情報編集力はこれまでの指標では評価しにくいことが予想される。
浅学である私には想像もつかないが、鍛え方についてはアクティブラーニングというものがあるようだ。何人かで話し合い、ブレインストーミングというもので、意見を自由に出し、時には思い付いたものだけでなく、他のものと組み合わせたりする。そうした自由な学習方法があるらしい。
それを評価するには、何かについて課題を与えて、アクティブラーニングをさせることだろうか。その対策をする塾や予備校が出てきそうだが。
時事的問題が出そうだという予想が出そうなので、さまざまな話題についてランダムに選ぶなどになりそうだ。
数人で話し合わせる形だと、活発で意見を出しやすい大きな声の子が有利である。それを避けるには、話し合い中のビデオを撮り、話し合わせた後、どんな意見が出てどう思ったか、最終意見にどう感じ、どのように考えたかを答えさせるといいのだろうか。
評価に相当な時間がかかりそうだが。

基礎的人間力の評価

基礎的人間力は、芸術や運動能力のような部分や愛想など人間的な部分があり、まず把握することが非常に難しい。
芸術や運動能力は実技試験や入賞歴である程度は測れると思う。しかし、それらには指標が作りにくい。
美術に対する3つのつながった記事を参考にする。

具体的な評価方法については触れられていないが、絶対的な評価基準はなく、ある絵画をどういう理由で好き/嫌いなのか説明できることが大事なのだと解釈した。

こちらは芸術を評価するための指標について書かれていた。
背景知識を身に着けて、歴史や構図を理解しながら新規性のあるものを作り出すという営みであると解釈した。

これらを考えると、芸術を評価することは非常に難しいと思った。
結局は評価者の好き嫌いや解釈の問題、新規性のある/なしになり、評価する/しないの話ではない。芸術は指標を作らず、評価しない方が良いかもしれない。
それを考えると、これは情報処理力を試す問題、つまり知識を試す方が評価しやすいかもしれない。これも評価はしやすいが、妥当ではないと思う。

運動能力については、健康かどうかについて判断する指標としてはどれだけ肺活量があるかなどはいいと思う。しかし、優れているかについては判断しにくい。力が強ければ強いほど能力は高いが、それをすべてのスポーツで活かせるわけではない。
例えば、握力が強いからと言ってサッカーが上手とは限らない。
もちろん相関はあるだろうが、すべてのスポーツを体験してもどれが一番向いているかはわからない。
どの能力が一番向上するかについても現代医学では小学生の低学年時点での運動能力からその後の小学生の時の能力の予想はできるらしいが、中学・高校時まで予想できるかわからない。

これも情報処理力を試す方がいいのかもしれない。
ただ、筋肉量がどれだけ増えたか、肺活量がどれだけ増えたか、走れる距離がどれだけ増えたかで判断ができるかもしれない。
勝敗については複数要素が絡み判断しにくい。野球ならピッチングマシンを使い、どれだけ打てるかで評価できそうだが。

人間性の評価は、あまりにも定性的評価(数値以外での評価)が関わる可能性が高く非常に難しくなると思う。
確かに、何人から好かれているというのは数値化できるかもしれない。
しかし、好かれている人が多いからといって、その人が魅力的かどうかの判断にはなりえない。人々から好かれやすい個性を持っているだけの可能性もある。あるいは、人々から好かれやすい属性であるのかもしれない。
これは例えば、性格の悪いイケメン/美女と性格の良いブサメン/ブスで考えるとわかるかもしれない。
一応断っておくが、私はルッキズムが弱く、そこまでわからないが、例を出すためだけに用いた。
実は後者よりも前者を好む人が多い可能性がある。面食いはそうなるかもしれない。言いたいのは、評価にはルッキズムの要素が絡む可能性がある。
ここで分類をしておく。人間性については、外面(容姿)と内面(性格)があるとして分ける。

外面は整形があり、お金があればいくらでも変えることはできる。
偏見だが、日本は整形に悪いイメージを持つ人が多いと思う。
芸能人の整形疑惑だけで幻滅する人がいるらしい。
結婚相手の整形を嫌がるのはまだわかる。おそらく、子供に遺伝してほしくないのだろう。その人は自分の顔面も気にした方がいいだろうが。
そして、当然これも評価される。聞いたことがあるのは、魅力的な顔というのは今までに見てきた顔で平均的な顔らしい。これも時代や国により評価の差が著しい。
つまり、絶対的な美というのはないだろう。流行りのようなものだろうか。

内面は繕えるが、手術で変えることはできない。
環境や教育で形成されるものだろうか。
評価というのも難しい。
“優しい”というのも“優柔不断”と言い換えができるように、すべての内面が良いようにも悪いようにも受け取れる。
結局は評価者にとって都合がいいかになりそうである。
ただ、暴力的だったり、癇癪を起こしたり、多重人格だったりするというのは一般的には好まれないだろう。好きな人は好きだろうが、殴ったり殺される可能性が高い人と一緒にいたいかといえばわかるだろうか。
ただ、それでも評価されてもいいとは思う。

https://jp.indeed.com/career-advice/career-development/types-of-personality-test

Indeedの記事において主要な性格診断についてまとまっていた。
仕事に対して必要なある程度の評価ができそうだ。
実際に使ってみないとわからなそうだが。

外向性や内向性など使える部分は多そうである。
多くは有用性が科学的に証明されているらしく、上手に評価されているようだ。

評価の過程とはどのようなものか。

私が考えるには、何の脚色もない客観的な一次情報を見て、バイアスや指標により意味づけをすることで評価が行われる。

一次情報は、人で言えば、名前、年齢、(生物学的)性別、職業、戸籍、学歴、収入などである。

そこに、バイアスという意味付けをすることで評価が行われる。
この収入は平均と比べてが低い、学歴が高いから優秀そうだ、など。
一次情報だけでは不十分なので、そこに評判などの二次情報を付け加える。
そこに活動や実績などを大学入試では併記する。しかし、その人が何を経験して何を思うかはその人にしかわからず、その人ですら認知できない部分がある。海外留学したとして、前提知識が無ければただの観光と同じであるということだ。

商品であれば、一次情報は価格や生産者、売上高などだろうか。二次情報は購入者の評価、食べ物なら味やにおい、工業物なら使い勝手などだろうか。
売上高はほかの商品と比較され、まず売れているのか売れていないのかが判断され、次にどうしたら売れるのかが考えられるだろう。

指標はどうあるべきか。

指標は完璧にはなりえず、誰か・何かの一部しか再現することができない。
それを念頭に置いて、それをどう利用するかが大事になってくる。

例えば、
AさんはBさんより優秀です。なぜなら、○○模試でのAさんの成績がBさんの成績よりよかったからです。

これは後半は正しい。“この時点”での○○模試でのAさんの成績がBさんよりよかったことは一次情報として正しいだろう。しかし、それをもってAさんがBさんより優秀とは限らない。BさんがAさんより“偏差値の高い”大学にいったり、Bさんが優れた発見をしたり、Bさんの収入がAさんより高かったりする事例は多い。あくまで一時点の評価に過ぎない。
確かに、高校3年生の11月にこの結果なら、そう言いたくなるだろうが、Aさんが第一志望校の試験当日に体調を崩して試験を受けられず、Bさんより“偏差値の低い”大学にしか合格しないかもしれない。
しかし、浪人してより“偏差値の高い”大学に次の年合格するかもしれない。

以上の文は、実はバイアスにまみれている。模試でいい成績を取ること、“偏差値の高い”大学に入学すること、優れた発見をすること、収入が高いことが良いこととは限らず、浪人することが悪いこととも限らない。
本人にとっては何を望むかなのである。
Bさんの成績が低くても、その前に部活でいい成績を取っていたら、本人にとってそれは充実した高校生活となったかもしれない。
Aさんの成績が良くても勉強しかしていない高校生活なら、本人は不満がたまっているかもしれない。
何か他人から見ていいところがなくても本人は十二分に満足していることもある。
何かに対しての“良い・悪い”は所詮周囲が作り上げた相対的評価でしかない。しかし、評価者からすると違う。

誰かを評価するとき、本人の満足度・理解度・実際の個性に関係なく、成績・実績・当日の態度で評価する。
嘘をつくのが上手い人もいる。
入学者や新入社員を選定するとなったら、できるだけ優秀な学生が良い。
ただ、それをせいぜい長くても数日の間に面接・筆記試験で潜在能力まで見抜くのは難しい。
だから、表面的な能力を見ることになってしまう。これは仕方がないことだ。

誰も誰かの潜在的能力まで見抜くことはできない。
そして、その人の将来やどの職業・人生に適するかまで見抜くことはできない。
いるかもしれないが、ごく一部か完全ではない。

できることは、あらゆる分野に対して指標を増やし、その限界を把握しておくこと・限界を減らすこと、そして定量的評価だけでなく、定性的評価も場合によっては採用することも大事である。

特にスポーツについてはそういった指標が少ないと思う。
野球が苦手な子がフェンシングなどマイナースポーツで輝くことも少なくない。
そのための指標、より細分化された体力テストによる診断などがあればいいのではないだろうか。
本人の希望もあるだろうが、適性も踏まえて職業選択等を行えればより優れた自己実現ができるのではないだろうか。
過去に学校でそういったものを受けた記憶があるが、よくわからなかった。
もちろん性格なども重要だが、能力、運動能力も踏まえて自分に向いている職業がわかれば一つの大きな進路の選択に役立つかもしれない。もちろん、全く向いていないと出て落胆するケースもあるだろうが。
だが、あまり知られていない職業だが、自分に向いているとなったら、その職業の認知度や適性がある人の就職率も上がるのではないだろうか。

千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず

優れた指標・評価・審美眼は優れた才能を見出す。

古人の言によれば

千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず

韓愈「雑説」

とある。
指標がよりたくさん増え、最適化されれば今以上に自らを活かせる場を探せるのではないだろうか。そして、それは学力に限らず、多岐にわたるのではないだろうか。もちろん、美点だけでなく、今までは不明瞭になっていたからこそよかった点をあえて浮き上がらせることにもなりかねないが。
結論はあいまいかもしれないが、これからの時代でも誰か/何かのポテンシャルを測るのに役に立つ指標が増えることを願っている。

出典・参考


https://shinken-ad.co.jp/between/backnumber/pdf/2014_6_setsumeisekinin.pdf

https://www.soumu.go.jp/main_content/000420724.pdf


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