「在るのは無いものだけだ」とはどういうことか

 「在るのは無いものだけだ」というのは、ウィリアム・シェイクスピア作『マクベス』(松岡和子訳)の第一幕第三場に出てくるセリフです。魔女に王となることを予言された直後、王殺しを想像してしまうマクベスの傍白なのですが、常識的に考えると受け入れがたいものがあって、戯曲を解釈する時に扱いの難しいセリフです。目の前の物質や道具などは「存在する」。「在るのは在るもの」なのではないか?このセリフは間違っているのでは?と単純に考えてしまいます。

 しかし、マクベスの混乱から生まれた無意味な独り言と捉えるには、あまりにも戯曲中に似たセリフが多く、例えば魔女の発する代表的な「きれいは汚い、汚いはきれい」や「闘い、負けて勝ったとき」など、『マクベス』には反対の意味を持つ言葉が続けて使われるセリフが多く見られます。明らかにこのような、両義性(一つのものが、反対の二つの意味を持っていること)を表す言葉を意識的に使っていて、『マクベス』は両義性を主要なテーマとして扱っている戯曲だと考えられます。そこで、「在るのは無いものだけだ」というセリフを『マクベス』の悲劇がどういう構造によって引き起こされているのかを解き明かす鍵であると考え、少し書いてみたいと思います。「在るのは無いものだけだ」とはどのようなことを表しているのでしょうか?

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 まず、解釈するに当たって「在る(と感じられる)のは無いものだけだ」と補助線を引いて考えることにしました。マクベスのセリフであるということを踏まえ、マクベス自身の心情を表すセリフとして扱っても差し支えはないと考えました。『マクベス』の、この場面で、「無いもの」が表している事柄は、マクベス自身の王殺しの想像です。マクベスは、自分が今まで恐怖の対象としてきた、実際的な物・具体的な物・現実に存在する恐ろしい物を見るよりも、王殺しを想像する方が恐い、と感じます。心に浮かぶ王殺しのイメージに自分の精神が強く影響を受けることに驚き、「無いもの」(ここでは想像されたイメージ)に「在るもの」以上の存在感を覚えることとなります。他にも、妄想や幻覚などが「無い」のにも関わらず行動を制限したり促したり、「無いもの」だから関係がない、と切り捨てることのできない影響力をマクベスに対して持ちます。「無いもの」に人間が影響を受けるのは、どのようにしてでしょうか?

  想像を例にとって考えてみます。想像されたイメージは、どのようにして、人間に働きかけてくるのか。想像とは、「実際に知覚に与えられていない物事を、心の中に思い浮かべること」です。つまり、目の前では起こっていない物事を、心に浮かべることです。人間は、経験や記憶に基づいて、現実的には世界に存在していない、もしくは、将来的には可能性はあるが未だ存在していないような物事を心に浮かべることができます。この、心に浮かべたイメージは、世界に存在していないにも関わらず、人間に影響力を持っています。イメージは頭の中で思い描かれるだけで、物質として、また、現実的な存在としては、存在しない。このことは、「イメージは触ることができない」ということが示しています。触ることのできないイメージが「在る(と感じられる)」というのは、どういうことなのか?存在しないイメージを存在しているように感じるのはなぜか?そのことを考えるためにはイメージの性質について、もう少し考えを深める必要があります。

 イメージは、身体・脳の中、つまり、人間の内部で起こっている働きです。外部からの刺激に基づいてはいますが、内部で、再度思い浮かべられた物事であり、イメージは、思い浮かべるための材料が内部にある、「自分」というものの一部を形作るものです。言ってしまえば、イメージは「その人自身」を形成している要素の一つです。つまり、イメージへの意識は、自分自身の一部への意識だ、とも言えます。想像する主体としての人間が、イメージに恐怖するとき、その人間は自分自身の一部に恐怖しているということになります。この、「人間は自分自身を意識できる」ということが事態を複雑にしています。人間は自分自身を「他」として立てることができるのですが、そのことで、自分の中に、距離が生まれています。人間は、自と他の両義性を持っていて、「自分自身」であり、同時に、「自分自身に対する他」であるため、存在としての同一性を保つことができません。「自分」を充実した具体的な存在として意識しようとしても、その時意識されたものは「自分が意識している他」となってしまい、「自分」という存在ではなくなってしまう。この人間の両義的な性質が『マクベス』においての「無いもの」という言葉が表しているものなのではないかと考えました。物質等は目の前に確かに存在し五感で捉えることができますが、自分自身を五感で捉えようとするとすり抜けてしまうような空虚さを感じます。「一貫した自分が、確かにここに存在する」という実感は生きているうちは得られません。事実、人間の身体は数年で丸ごと別の物質に変わってしまうようで、物質的な意味でも同一性のある存在とは言えません。「自分」とは「自」と「他」の間で揺れる、もしくは「自」と「他」を無限に循環する、空洞・距離のことを指しています。そのような意味で人間は、一貫した存在とは異なった、「無いもの」であると言えます。「在る(と感じられる)のは無いものだけだ」は、上記のような人間の持つ自と他の両義性、人間の中にある空洞・距離が引き起こす感覚なのではないでしょうか。 何かを想像しイメージを思い浮かべるとき人間は、実は自分自身を意識しています。そしてその、自分自身が「無いもの」であるために、人間は「無いもの」に強く影響を受け、まるで「無いもの」が存在しているかのように感じます。これが「在る(と感じられる)のは無いものだけだ」の一つの意味なのではないかと考えました。

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 一方で、存在に接している時はどのような状態におかれるのでしょうか?マクベスは、「在るのは無いもの"だけ"だ」と言っていて、「無いもの」の存在感に驚きつつ、「在るもの」の存在感を否定して、その空虚さを示しています。これは、マクベスが王になった後も続いているようで、例えば、第三幕第一場に「俺の頭には実を結ばない王冠を載せ、手には不毛の笏を摑ませておきながら」というセリフがあります。王冠や笏を手に入れることはできたのですが、その道具に対して空虚さを感じることになります。人間は、物質や道具等を五感で捉えることができ、「在るのは在るものだ」と確かに言えるはずなのですが、マクベスは、手に入れたはずのそれらの道具がすぐに離れてしまいそうな不安を感じます。これはなぜなのでしょうか?

 人間には所有欲があります。ある特定の道具・物質を手に入れ、自分の物にしたいという欲求です。この欲求をもう少し詳しくすると、その物と一体化した存在になりたいという欲求だと捉えられます。例えば、王冠への所有欲であれば、「偉大なマクベス」という理想の存在になるために王冠と一体化したい欲求だと捉えられます。しかし、この一体化の試みは失敗します。所有欲はある物と一体化し、自分の存在を理想の存在に変化させたいという欲求ですが、人間は「周囲の物、では無いもの」として自分を形作る生き物だからです。人間は自分の存在を意識しようとするときに、直接ではなく、周囲の物を通してしか意識することができません。例えば、鏡や映像に映された自分の像は、ただの似姿であり、他者として存在します。そのような自分の似姿や五感で捉えられる周囲の物と、自分との差異・境界線を意識することで、自分という像を形作っていきます。何かを所有し、その物と一体化しようとしても、「その何かではない自分」が、むしろ意識されてしまいます。「偉大なマクベス」へと変化しようと王冠との一体化を欲すれば欲するほど、「王冠の所有者」としての自分ではなく、「自分と王冠との境界線」が鮮明になっていきます。確かな存在を持つ周囲の物と違い、「無いもの」としての自分がむしろ主張してきて、何かを所有しようとすると「在るものが、無い(と感じられる)」ような虚しさを覚えることとなります。これが、逆の側面から見た「在るのは無いものだけだ」の意味だと考えました。

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 以上のように、「在るのは無いものだけだ」というセリフから、人間の性質として自と他の両義性があること、また、人間自身が「無いものとして在る」という性質を持っていること、など重要なテーマを感じました。冒頭に述べたように、『マクベス』という作品全体に似たようなセリフが多く見られるため、あながち深読みしすぎではないのではないかと思います。『マクベス』とは、自分自身の「無いもの」としての空虚さに耐えかねて、悲劇に見舞われる物語として捉えることもできます。マクベスの悲劇は、全ての人間が抱える矛盾を起源として、引き起こされているのかもしれません。

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