「生贄探し 暴走する脳」を読んでわかった、東京生まれ東京育ちのりんちゃんへの違和感の正体

タイトルの本は、講談社から出ている、脳科学者の中野信子さんと漫画家のヤマザキマリさんの新書です。
本屋さんで何となく手にとって購入、読んでみたら、はっとすることがいくつかあり、文章化せずにはいられなくなりnoteをひらきました。
※身バレ防止のため、多少フェイクを入れます。
※便宜上東京と一括りにしています。

新年度、職場の同じチームに、人気美容系インスタグラマーの20代半ばの女性が加わりました。便宜上、りんちゃん、と呼びます。名前は適当です。

ご参考までに、私は地方県で18歳まで生まれ育ち、大学進学と共に上京。就職と共に地元に戻りました。その後結婚を機に7年ぶりに上京し、3年目です。
対するりんちゃんは、ご両親もご自身も東京生まれ東京育ち。私立の女子中高を出て、大学も華やかな私大、就職先も都内のメディア系超大手企業です。

さて、りんちゃんの話です。
私がりんちゃんに感じる最大の違和感は、

自己顕示欲の高さと、自己認識とのギャップの大きさ です。

フォロワー数も非常に多く、美容系のインスタグラマーですから、きれいな方なんです。人目をひく華やかさもある。
そういう外見を維持し、本業と別にインスタグラマーをされているのは、日々の努力や継続の証ですから、すごいと思います。
年代も私とはちょっと違うので、同じ土俵にたった嫉妬心ということではないこのモヤモヤした気持ち。

りんちゃんがチームに加入した時、どこの組織でもよくある自己紹介タイムがあったのですが、ここでりんちゃんは、美容系インスタグラマー界における自分の立ち位置のプレゼンを始めたんです。詳細は端折りますが、要は自分はトップオブトップだということ。

ここまではいいんです。真実でしょうから。誰もがなれるわけじゃないところにいることは、純粋にすごいことですし賞賛されて良いと思います。

ここからが違和感です。
トップオブトップの説明の後、りんちゃんは自分の性格について、「内向的で控えめな性格です」と言ってのけたのです。

内向的で控えめ・・??

えーっと、、、内向的、控えめ、ってどう言う意味だったっけ?

最初に私の頭に浮かんだのは、内向的で控えめな性格の自分の姉です。
とてもじゃないけどりんちゃんと同じ部類の人間ではない。
りんちゃんが言葉の意味を理解していない可能性も0ではないけれど、いくらなんでもそれはないと思うので、じゃあ同じ日本語を使っていて同じ日本に住んでいるのに、同じ言葉の解釈がどうしてこうも異なるのか。

そこでタイトルの生贄探しの本です。

ここであげるのはコロナの話。日本が諸外国に比較して感染者数が比較的抑えられているのは、世間体のジャッジがどこまでも厳しく、感染=群れに害をなす、として排除される風習があるからではないか、ということについてです。

コロナの排除についてわかりやすい例とされる、ダイヤモンドプリンス号の乗客だったというだけで、周り近所からの非難が凄まじく引越しを余儀なくされた方がいることは初めて知りました。

で、これって住んでいる地域によって大きく異なると思うのです。
多くの地方では、どこのだれがコロナにかかったかと、その前後の行動まで、その人を全く知らない人が知っているものです。(例えば、X会社の代替わり社長はキャバ嬢と東京のどこそこに行った時にコロナに感染して、その後地元に帰ってA店とB店をはしごしたらしいよ、ということまで)
特にコロナ初期や、感染者が日々数人〜数十人単位くらいの規模だと、地方の噂がまわるのは本当に早い。

これが東京になると、全く状況が変わります。
マンションの隣の部屋の人がコロナかどうか、わかりますか?
同じ地区にコロナ罹患者がいるかどうか、わかりますか?
私はわかりません。

近所づきあいのある都会人はさておき、多くの近所づきあいの希薄な人々は私と同様に、隣の部屋で何が起きているか知る由もないのではないでしょうか。

これが東京の匿名性です。

この匿名性は、日本特有の「自分よりもみんな(群れ)を優先させる」という価値観をナチュラルに忘れさせるものです。
群れから独立した存在というか、群れ自体が存在していないから。

さらに、超大手企業や、社員同士のつながりが希薄もしくは限定的な範囲でしか人間関係が成り立っていない場合、匿名性はさらに高まります。

私が在籍する企業はまさに上の定義に合致するのですが、例えば私がコロナにかかったとして、それを知ることになるのは同じチームの10数人と、上位組織である部の150人くらいです。
ただし、部150人のうち、互いに名前と顔が一致し個人として関係性があるのはせいぜい10数人ですから、巨大企業の中でも私個人が気になる群れはたった20数人なのです。その20数人に関しても、その家族と私や私の家族の繋がりは皆無です。
ちなみに、会社組織も一従業員からしたらかなり遠い存在なので、会社に迷惑をかけるかも、という発想も浮かびません。バックオフィスを除く多くの社員が個人事業主的な働き方なので、私一人が欠けたところで巨大企業の一事業には痛くもかゆくもないのです。

ところがこれが前職の地方企業(従業員数1000人以上)だと、全く異なります。
私がコロナに感染したことは、決して大げさではなく会社中の誰もが知ることになるでしょうし、加えてその家族にも同時に情報が回るため、回り回って実家の近所の人たちも知ることになり、私個人のみならず家族も巻き込んで非常に肩身の狭い思いをすることになります。

ということで、コロナの例からもわかるように、地方に暮らす人間の価値観と、東京に暮らす人間の価値観は、「群れ」に属しているか否か、「群れ」への意識の有無によって、大きな違いがあるわけです。
(という長らくもやもやしていたことを、生贄の本を読むことですっきり言語化できました)

りんちゃんの話に戻ります。

私から見たら、「内向的」な要素も「控えめ」な要素も皆無なりんちゃんですが、それはりんちゃんが言葉の意味を知らないわけでも、私が若く美しいりんちゃんに対して自認できない嫉妬心をたぎらせているわけでもなく、「群れ」への価値観の違いなんだな、と思ったわけです。

「群れ」への意識の薄い東京で30年弱生きて来たりんちゃんにとって、比較対象となるのは、身近にいる同類の人か、同じようなメディアの中にいる人たち。家庭の経済レベルも、本人たちの偏差値レベルも近い集団。
そして、群れ=世間体からのジャッジについても、同じくらいの範囲にいる人たちなのでそこまで厳しくないか、範囲が限られた状況。
(控えめかどうかについても、日本の控えめレベル1〜10のうち、例えば1〜5くらいの人しかいなければ、5なら自分はとても控えめなので、そのラベルが容易に貼れる)

「群れ」への意識の強い地方で人生の多くの時間を生きて来た私にとって、比較対象になるのは、ある意味非常に多様性のある人種。(学歴も中卒〜東大卒・大学院卒まで。職業も一次産業から官僚や医師、欧州のプロオーケストラや陶芸家などの芸術家。専業主婦、障害を持つ人・・本当にいろんな人がいます)
群れ=世間体は、上記多様性が元になるので、どこかに突出しないとある意味とても比較しづらい状況。
(控えめかどうかについても、レベル1〜10までの人がいるので、5程度では自分に控えめというラベルを貼るのは難しい)

どっちがいいとか悪いとかの話ではなく、その間には大きな川が流れているということです。
あとは環境のみならず、どこまでの人を自身が認識しているかにもよりますよね。
同じ教室に、日本の控えめレベル1〜8の人がいたとしても、レベル5のりんちゃんが6以上の人たちを認識していなかった可能性もある。


ということで、りんちゃんにとっては、りんちゃんの知る周りの人と比べれば、自身は内向的だし控えめなのでしょう。
言葉尻を捉えて違和感を持ってモヤモヤするよりも、違う価値観の人だと割り切って付き合っていく方が互いに気持ちがいいなと思った次第です。

おしまい。

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