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坂本龍一 Thatness and Thereness   またはmono/oto/koto/toki       【未完、随時加筆修正】

はじめに

 「人類学者になりたかった」と語ったこともあった坂本龍一は、人類学者のように旅し、文字通り、世界中に足跡を残した。
 「人に聞こえていないようなものすごく高い音も聞こえている」(https://www.j-wave.co.jp/holiday/20230505/大貫妙子談)という坂本龍一の耳には、私たちには聞こえていないような微細な音も、鋭く響いていたのかもしれないし、そもそも聴き方、音の受信・解像の仕方が、常識的な、聞き方と異なっていたのかもしれない。

「雨」の音が好きだと語りつつ、私たちは雨の音そのものを聞くことはできないという点を強調していた坂本龍一の言葉を思い起こそう。

(坂本龍一)
 僕は雨の音が大好きなんです。雨が降ると必ず窓を開けて録音します。同じ雨でも毎回違うんです。毎回違うし、一分経てば音も変わってくるし、風が吹いても変わるし、どこで録っているかで変わる。同じ雨でも家の中で録っているのと、庭で録るのも違う。それに結局、雨の音っていうけど、雨の音は聞こえないんですよ、僕らには。空気中を水が通過しているわけだから、それは聴いていない。雨が何かに当たっている音を聴いているわけでしょ。だから、雨がどこに当たるかで全く音は変わるわけ。土に当たれば土の音がするし、硬いものに当たれば硬い音がするし、全く違います。しかも、自然現象だからどんどん変化する。水の量も変化するし、風によっても変化するし、非常に複雑なんです。人間はザーザーとかぴちゃぴちゃとか簡単に言っているけど。よく聴くと本当に複雑で、だから、雨が降ると毎回録音しちゃいます。

(インタビュアー)
——映画でも雨を録ってましたよね。と考えるとNYで録れば、人工的なものにぶつかっているし、自然ではなくて都市の音ってことですよね。

(坂本龍一)
自然ではないですね。もちろん林の中に行けば、それは自然の音なんだけど、100%自然ではないですよね、しかもそれをデジタルで録音しデジタル再生しているわけだから。

https://i-d.vice.com/ja/article/pa393y/ryuichi-sakamoto-coda-ryuichi-sakamoto-interview『Ryuichi Sakamoto: CODA』坂本龍一 インタビューより) 

 そうした「雨」と名指される気象事象の諸相の豊かさに耳を開き、その音の規則性/不規則性に、「音楽」的なものを聞き取る耳。

 デジタルデバイスを介在させた時、いわゆる自然物は、自然でなくなる。

 一方で、YCAMにおけるフォレスト・シンフォニーにおけるような、自然の諸力のデジタルな可視化の試みもある。

 反復性と、反復の不在を、同時に聞き取る耳。
 再現性と、再現不可能なものを、同時に、感じ取る繊細な知覚。

 https://www.youtube.com/watch?v=E1PgXhfLBms

("glacier" from  "out of noise" 2009)

 北極圏の氷河の下を流れる水の音、を通奏音として

 "out of noise" 前後から、坂本龍一は、ある方向に、進みはじめたように見える。

 権威を嫌い、シグニチャーの獲得を、いわば動物的な本能で、避け続けながら、outer nationalな、「見えない大陸」(ル・クレジオ)の上を、混淆的な音楽言語を携えて、自由に(『12』)、ノマドとして、動き続け、つねに新しい何者かに生成しつづけた坂本龍一が、"out of noise"の前後を境に、「自然」の方を向きはじめる。

 とともに、西欧近代音楽を規定しつづけ、再生産され続ける産業音楽をいまなお拘束し続けている文法の数々を脱したところでsound, noise, musicをゼロから思考し直すような、創作を開始する。

(しかしよくよく眼差すと、80年代における大森荘蔵や、吉本隆明との対話において、後年の主題系は、すでに現れているようにも、見えるわけだが)

 そのピュシスへの意識は、東日本大震災に遭遇して、また、もっとも身近な自然である身体の制御不可能性に直面して、一層の深まりを見せ、その変容は、自ずと創作物に、反映を、投射するようになる。

 おそらく、坂本龍一は、癌でさえも、健康な身体を犯す遺伝子の複製「異常」と、ネガティブにばかり捉えてはいなかったのではないか。

 (特に高度なマーケティングに基づく)音楽は、コードの配列のコピーであり、メッセージもまた過去のヒット作の異なる文脈における置換であったりするわけだろうが、とすれば、複製異常や、有機体の壊れ方の固有性や、生命体の振動の減衰に抗う姿勢の代替不能性は、それじたい、特異なl'art de vivreとして、肯定されるべきものだ。

 それまでの「ポストモダン音楽機械」(浅田彰)的な身振りはなりをひそめ、「人間」坂本龍一が姿をあらわす。

 というと見事な物語であり、生涯そのものを作品化するような見事な身仕舞いであるように思えるし、そうした様式化の願望も否定はしない。

 私自身、見事だと思いもする。

 しかし、むしろ、最新の坂本龍一は、一層「機械」になったのだと、捉えるべきなのではないかと思う。

 観念的な言語遊戯の類としてそうするのではなく、パブリック・プレッシャーに晒される前の、若き日の、幼き日の坂本龍一に、「晩年様式」において回帰し、60年ほどかけて、円環的に、初期衝動に回帰したという側面も、実際に、あるのかもしれないが、私たちが、坂本龍一の姿を再生しつづけるために必要なのは、その円環を閉じない円環として描きつづけることであり、いまなお「映像」(images)として生き続ける坂本龍一が、「これから何をしようとしているのか」を、常に、思い描き続けることではないだろうか。(12122020や、「最後」の配信コンサートの先駆性。私たちは、あたかもそれがはじめてのときであったかのように、幾度も坂本龍一に出会い直すことになるだろう)

 ドゥルーズの「機械」に引き寄せることが、坂本龍一的なクリエイティヴの継続に即通じるものかどうか、今の私には分からないが、ひとまず、『千のプラトー』の「リトルネロについて」から、「近代」について記されたくだりを引用してみることにしよう。

 近代があるとすれば、それは宇宙的なものの時代である。自分はアンチ・ファウストだ、とパウル・クレーも言明しているではないか。「動物やその他のあらゆる被造物に大地に根ざした親愛の情を向けることは私にはできない。大地に属するものは、宇宙に属するものほど私の興味を引かないのだ。」アレンジメントは、カオスの力に立ち向かうのをやめ、大地の力や民衆の力に深く沈滞することもやめて、宇宙の力に向けておのれに開く。これでは一般的すぎるかもしれない。ヘーゲル風に絶対精神をあらわしているように見えるかもしれない。だが、問われるべきは技術であって、技術以外の何ものも関与させてはならないのである。本質的な関係はもはや質料-形相(あるいは実体-属性)の関係ではない。かといって形相の連続展開と質料の連続変化が関係づけられるわけでもない。ここでは、本質的な関係は素材-諸力の直接的関係としてあらわれてくるのだ。素材とは分子化した質料のことであり、その意味では諸力を「捕獲」しなくてはならないわけだが、この諸力は宇宙の諸力でしかありえない。適切な理解の原理を形相に見出すような質料はもはや存在しないのだ。いま必要なのは、次元の違う力を捕獲するために、一つの素材を作り上げることだ。視覚的素材は不可視の力を捕獲しなければならないのである。クレーは言う。可視的にするのであって、可視的なものを表現したり、再現するのではない、と。(※1)
(中略)
表現の質料は捕獲の素材に場所を明け渡すのである。捕獲すべき力はもはや大地の力ではない。大地の力は大いなる表現の〈形式〉を構成するにとどまっているからだ。いま捕獲すべきなのは、不定形で非物質的なエネルギー宇宙の力なのである。
(中略)
岩は岩が捉える褶曲の力によってのみ存在し、風景は磁力と熱の力によって、リンゴは発芽の力によってのみ存在する。そうなるためには、セザンヌの到来を待たなければならないだろう。目には見えないのに、見えるようになった力。力が必然的に宇宙の力になるのと、質料が分子状になるのとは同時である。(※2)
(中略)
リトルネロですら、分子状であると同時に宇宙的なものになる。ドビュッシーの場合がそうだったように……。音楽は音の質料を分子化するが、そうすることによってこそ、〈持続〉や〈強度〉など、いずれも音をもたない力をとらえることができるようになるのだ。持続に音を与えること。ここでニーチェの考え思い出そう。聴き慣れた歌、リトルネロとしての永劫回帰。しかし思考不可能にして沈黙させる宇宙の諸力を捕獲する永劫回帰。こうして、人はアレンジメントの外に出て〈機械〉の時代に足を踏み入れる。そこは巨大な機械圏であり、とらえるべき力が宇宙的なものに変化する平面である。

(※1)本論の主題から逸脱するが、坂口恭平のパステルは、一見したところ、何気ない熊本の「風景」のようでいて、不可視の力を捕獲する素材(マチエール)であるように思われる。外的ピュシスと内的ピュシスの〈あいだそれじしん〉のパステルの混成における定着であると感じる。
 それにしても、なぜ、それを、その時空間を定着させようとしたのか。
 そのトリガーに対して作家が意識的であるのか、あるいは、なぜだかは分からないが、「いまだ」と思う瞬間があるのか、など、少しでも知りうることがあれば、とは思う。
(※2)ドゥルーズがセザンヌについて語っていることは、そのまま坂口恭平のパステルについても言えるように見えるが、坂口のパステルは、さらにその先の次元にまで踏み込んでいるように思われる。坂口のマチエールによって可視化される力には、描く身体の上に作用する無数の諸力もまた、含まれているように見える。坂口のパステルは、描かれるものの上の諸力と描くものの上の諸力を同時に捕獲しており、視るものは、描き描かれる時間性そのものを生きる。その体験は、表象的な体験をはみ出し、「絵画」的な体験を超えでており、体験者は、現実のあらわれの層が捲れ上がり、別の地層が剥き出しになって迫り出して来る感覚に圧倒され、定型化し、定式化した知覚のルートが、組み替えられるのを感じるだろう。その組み替えは、坂口恭平じしんの中で、周期的に生じている組成変化のようなものなのかもしれない。鬱は、認知的な枠組みの固定化と、深い関連があるようにも感じられる。世界の本源的な流動性、不可測性の濁流の中で、「自己」を保つための杭のようなものとして鬱状態はあるのかもしれない。鬱状態の象徴として、線形のグリッドを置いてみたくなる。飛躍するようだが、鬱状態というのは、線形的・合理的思考が固定化した状態であり、優れて「人間的」な状態であると言えるのかもしれない。無論、人間に特徴的な一側面のみを強調した場合にそう言えるというのに過ぎないが。となると、さらに飛躍するようだが、「フリクションなきUI」のようにデザインされた社会(特に都市空間)において、人間が鬱的状態に陥りやすくなるのは必然であるように思われる。そこでは、素材=物質としての「現実」が抑圧され、人間的な特質の一側面にすぎない条理的な思考ばかりが称揚され、身体的運動でもあるはずの労働が、矮小化された知的効率に従って制限され、あたかも身体の固有性は無用物(ムダ)であるかのような労働空間が都市空間を覆い尽くしていく。生産性の最大化=ムリ・ムラ・ムダの最小化。生産性の最大化=単位時間あたりの利益の最大化。生産性の最大化=単位時間当たりの売上の最大化及び経費の最小化。その延長として、人間身体のネットワーク端末化、身体を差し向かいにしての対面コミュニケーションの減少、人格の固有性の労働空間からの排除は、行くところまで行ってしまう。社会全体の鬱化は、必然的な帰結だ。

〈機械〉の話だ。
 改めて、『千のプラトー』の続きを引こう。

 

 ともあれ、批評家は、坂本龍一の「晩年」における「機械」から「人間」への変化の「原因」が「病」にあるとは「言いたくない」と語っていた。
 深く長い付き合いのあった友人に対してさえも、いや、大事な友人であるからこそ、己を「傍観者」と言い、「人」と「作品」の変化が、同一視されない配慮を怠らないところに、私は批評機械浅田彰の人間性を見てしまう。
 
 ars longa, vita brevis.(芸術は長く、人生は短い)

 坂本龍一が、好んだと言われ、近親者たちによって、その生の「終わり」の後に引かれたこの言葉を思えば、安易に「人」と「作品」を結び合わせてはならないと思う。

 ましてや、「人」から「作品」を引き出してくるなど、決してしてはならないことだが、私は、どうしても、坂本龍一じしんの、同一化を嫌う本性(自然)と、音楽の関係をめぐって、思考することに惹かれてしまう。
 
 舞台によって変わる仮面の下にある素顔にこそ、出会いたいと思ってしまう。
 
 仮に見えたと思った素顔も、鏡像かもしれないし、結局は、書き手が坂本龍一を介して投影した一種の自画像にすぎないかもしれない。
 
 一個の統合的な人格を引き出そうとすることは、坂本龍一が最も嫌うところだろう。

 昨日の自分が、さっきまでの自分が、もうちがう自分になってしまう。昨日まで好きで聞いていた音楽が、もう好ましくない音になってしまった。

 そういう「自己」の移ろいやすさについて、坂本龍一は、しばしば語っていた。
 その「素顔」が、すでに「複数」の側面に引き裂かれているのだとしたら。

 坂本龍一は優れて「和声」の人であるとともに、「多声」の人であると思う。和声はどちらかというと垂直的で、多声を意識させるのは水平性。単純すぎるかもしれないが、和声は瞬間性であり、多声は持続性であると、ひとまずは、言える。

【和声的でもあり、多声的でもあるバッハ/グールドによる「フーガの技法」】

 バッハのコントラプンクトゥスと、即座に結びつけるのは、突飛だろうか。

 音階なき「肉声」の、ズレたテクストの重層性(asynchronous textual layers)。

 複数の言語に翻訳された
 How many more times will you watch the full moon rise?
(『async』)

https://www.youtube.com/watch?v=UyK1VYUY_BI

 同じ言葉が、同じ音が、異なる「なにか」を指示する、または、「なにものも」指示しない。

 あるいは、次のような、トラックは、どうだろう。
  Is war as old as gravity?
(『chasm』)

「一」に収斂しない音の散逸。

 もう少し、fullmoonから引用しよう。

 Because we don't know when we will die
 We get to think of life as an inexhaustible well
 Yet everything happens only a certain number of times
 And a very small number, really
 How many more times will you remember a certain afternoon of your childhood
 Some afternoon that is so deeply a part of your being that you can't even conceive your life without it?
 Perhaps four or five times more
 Perhaps not even that
 How many more times will you watch the full moon rise?
 Perhaps twenty, and yet it all seems limitless

「同じ」内容の、複数の言語における「翻訳」の「朗読」が、同期することなく、レイヤーされる。

 Because we don't know when we will die
 We get to think of life as an inexhaustible well
 Yet everything happens only a certain number of times
 And a very small number, really

 Незнание точного срока смерти даёт нам возможность смотреть
 на жизнь, как на неисчерпаемый колодец
 Хотя всё в жизни случается лишь некоторое количество раз
 Причём, на самом-то деле, очень небольшое количество

 我们所痛恨的就是如此可怕的准确性
 但因为我们不知道死亡何时到达
 所以会把生命当成一座永不干枯的井
 然而,所有事物都只出现一定的次数,并且很少,真的

 Como no sabemos cuando vamos a morir
 Nos toca creer que la vida es un pozo sin fondo
 Sin embargo, las cosas ocurren solo un determinado número de veces
 En realidad, muy pocas

 La mort est toujours en route
 Et le fait que l’on ne sait pas quand elle arrivera nous sauve du fini la vie,       cette terrible précision que nous haïssons tellement
 À cause de notre ignorance, nous en venons à penser à la vie comme à un  puits sans fond
 Pourtant, chaque chose ne se produit qu’un certain nombre de fois
 Un très petit nombre en réalité

 Poichè non sappiamo, finiamo per pensare alla vita come un pozzo    
 inesauribile
 Eppure ogni cosa accade soltanto un certo numero di volte
 E un bel piccolo numero in effetti

 ボウルズの「原文」、その本人の声を、translate「移植」した、これらの(間)テクストは、すでに、相互に異なっている。

 重ねられた層は、翻訳の時点で差異化されているし、異なる声で読まれることでさらに差異化される。 
 声を発する身体が置かれた場所、その身体が生きてきた時間、言葉が、声が、引きずる、交わらないが、時折、折り重なる、時間の影。

(このfullmoonの後に、来るトラックが「async」という「弦楽」。生物学的な同期の傾斜に、意識的に抗うこと、その理由。その「理由」などあるのだろうか、ということも含めて)

(合うことの快楽/合うことの恐怖)

(相互に異物として共存すること)

(COVID-19/isolation/東京の某スタジオにおけるドアを開け放ってのピアノ配信/『incomplete』/sonic cure/ライゾマティクスによる配信と身体の物質性/もの派/『12』)

 あるいは。

 素顔が、割れたガラスの欠片ように、砕けた陶器の破片のように、複数に砕けているのだとしたら。

 そうした破片を拾い集めて、欠落をイマジネールで補完して、各々が繋ぐのが、他者の認識であるならば。

 最新の(「晩年の」とは絶対に書かない、書きたくない)坂本龍一の陶器への絵を付け、割り、配るという一連の「時間」の中での営みは、個の複数性、個があらかじめ宿している差異/分裂と、それを捉える側が世界において占める時間と場所の複数性を、端的に示して見せるものではなかったか、と思いもする。

 私たちは、もちろん、Thatness and Therenessが、「音楽家」の自画像であるなどと、断定する誤りは避けなければならないが、そこに、若き日の坂本龍一にとっての、ある重要な「時間」の「破片」を読み取る誘惑にかられることを禁じ得ないし、その重要な「時間」の「破片」は、後年に至るまで、その作品の大切なパーツとして、煌めきつづけているのではないか、とすら、考えてしまう。

 Slow-motion repeat of breaking glass
 Fear Creeping up from behind
 A slide into corruption
 A train of thought stops all along the way
 From start to goal
 Easy to understand
 Thatness, thereness
 A grid of time in view

 Deep blue metal
 Undulating, rise and fall
 We're hiding ourselves
 Don't want to see ourselves
 But still desire persists
 For self-injury, through exposure
 To reality
 Thatness, thereness
 A deep blue rush in time.

 Slow-motion repeat of breaking glass
 Fear Creeping up from behind
 A slide into corruption
 A train of thought stops all along the way
 From start to goal
 Easy to understand
 Thatness, thereness
 A grid of time in view.

 視覚に、時の格子。

(高橋幸宏氏は、教授のロマンティシズム、と言っていた)

 いや、もちろん、上のような「詩」に、例えば、下記のような「出来事」を直接的に読み込もうとすることも、読み手の自由ではあるし、排除するべきでもない。

「こんな出来事がありました。新宿でライブをした後、翌朝まで飲み明かし、甲州街道のあたりを酔っ払って歩いていたら、喫茶店のガラスケースがふと目に入った。その中にあるスパゲティやパフェなどの食品サンプルがホコリだらけで汚れていたので、僕にはどうしても許せず、いきなりガラスを蹴りつけて壊してしまった。『よし、これで世の中から醜いものを消し去ったぞ』なんて意気揚々と歩いていたら、器物損壊で警官に捕まったんです。不起訴になったので前科はついていませんが……。よく飲み、よく遊んでいた時代でした」
(日経 エンタメ!裏読みWAVE

 学生運動の、器物損壊の……

 それも坂本龍一を語る上で外せない要素であり、アルバム『async』disintegration(「脱統合化」とあえて訳しておこう)を引くまでもなく、同期・収斂していく運動のレギュレーションを、坂本龍一は、そのキャリアを通じて、確かに「意識的に」回避しつづけた。

 回避といえば、坂本龍一は、「じぶんの作品」を作る際に、意識的に回避しなくてはならない項目、制作上の制約がとても多い作家で、最新作である『12』(自由に)において、はじめて、やっと、そうした制約から解き放たれたのではないかと思えるほどだ。

 全体主義的な利用の回避。
 神道的なものの回避。
 オリエンタリズム、ジャポニズムの回避。
 定型的な旋律の回避。
 既存の構造の回避。
 人がやっていることに加えて、過去に自分がやったことの回避。

(映画音楽など、人の指示のもとで作るのはしんどい、できればやりたくない、などと言いつつも、制約のもとでの作りやすさがあっただろうし、制約ゆえに「世間」が音楽と見做しやすい「名曲」も生まれた)

 まあ、脱線しますね。
 私が脱線しやすいのもあるのですが、坂本龍一を脱線なしに語るのは、至難の業なのだと思います(言い訳)。 

「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」を意識しつつ「フクシマの後に、沈黙していることは野蛮だ」と語った坂本龍一。
 NAMの、moretreesの、NO NUKESの、ICCの、YCAMの、ワタリウムの、札幌国際芸術祭の、DUMB TYPEの、坂本龍一。
 J -WAVEの、NHKの、フジテレビの、テレビ朝日の、TBSの坂本龍一。
 ニューヨークの、バルセロナの、ローマの、ペキンの、ソウルの、東京の、京都の、福岡の、長崎の、北海道の、福島の、宮城の、岩手の、熊本の、坂本龍一。
 矢野顕子の夫としての、Norika Soraのパートナーとしての、子供たちの父親としての、おじいちゃんとしての、坂本龍一。
 日本の外に住み、孤軍奮闘、誰も言わないことを、多くを敵に回すことを知りながら自覚的に発信しつづけ、コミットしつづけた坂本龍一。

 そういう多様性の中から、テマティックに作品の系列を並べることの恣意性、とは思うのだが、その活動を追っていくと、どうしても、坂本龍一が繰り返し立ち返る「テーマ」として、「時間」の問題があり、これに取り組むことは避けられない。
 時間をテーマとしていることを明示した作品は、「曲」としては多くはないようだが、特に、最近の作品において前景化した。

 いま時間が傾いて
 Seeing sound, hearing time.
 TIME

 また、以下のようなくだりを読むと、「おと」と「もの」、「存在」をめぐる、知覚と認知をめぐる思考もまた、キャリアの最初期からずっと坂本龍一の思考の重要な核でありつづけたことが、見てとれる。 
 
大森荘蔵との対話を引用しよう。

音と物 1982/2017

  オオカミの幻
S  いま、音を作るほうも、聴くほうも、二つのスピーカーを、音源として使います。ステレオ・サウンドっていうのが、一般的ですね。あれは人間がそうあるべく作ったものですから、当然といえば当然ですが、ある音を同時に両方の音源から出しますと、その音は真ん中で鳴っているように聴こえるわけですね。真ん中に音があるように認識される、それ錯覚なんでしょうか。
O  私は錯覚と思いません。(以下略)
S  イリュージョンというふうに言ったんじゃおかしいというわけですね。こういう仮定はいかがでしょうか、たとえば自然の中、森があって……狩人が狩りに行きます。オオカミが二匹別々の場所にいたとします。ごく少ない確率ですけれども、狩人が二匹のオオカミから等距離の位置に来た時に、二匹のオオカミが同じ声色で同時に啼いたとします。この狩人にとってはオオカミは、実在の二匹のオオカミのちょうど真ん中に一匹だけいます。それを避けるためにどっちかにきます。すると、食べられてしまう。もっとも、ぼくがこういう関係図を頭に描くこと自体、いわば神のような視点から描き、語ってしまっているから困るんですけれども……。
O  それ、いい言葉ですね。神さまというのは、いちばん上から俯瞰して見ていますからね。
(大森荘蔵+坂本龍一『音を視る、時を聴く』「見ることと聴くこと」1982年、朝日出版社)

 ついで、それからおよそ35年後の畠中実との対話。

「今回のワタリウム美術館での展示(”坂本龍一 設置音楽展”)は、僕としては5・1chがこの作品の本来、聴くべき環境なのですが(中略)ステレオというのは、スピーカーが左右にふたつあって、普通の音楽だとドラムやヴォーカルは真ん中から出てくる。幻聴ですよね。ほんとうはそこには音はないわけだから。人間の脳がそう聞いているというだけで。僕はそれがいやなんですね(笑)。ものがあるところから音が出てこないといやなの。(中略)やっぱり物から発している音というのを僕らはよく考えなくちゃいけないと、最近強く思っているんです」
(2017年3月21日 畠中実によるインタビュー 六本木グランドハイアットにて)

 私は、坂本龍一にとって、もの、おと、とき、の関係性が問われるのはなぜなのかを問うことが、この作家のアクシスの一つに近づく鍵なのではないかと考えている、というか、感じている。

 仮に言葉を並べてみる。

 うつろいやすい、快楽的な、感覚の断片
 
 おなじ、を持続することの、むずかしさ

 あるいは 

 人間的な本性(ネイチャー)と
 距離を置く
 樹木などの自然(ネイチャー)
 
 存在と時間
 ものが、それとして、そこに、輪郭を持って、あり続けることの不思議
 解体を宿した個物性
 
 ピアノの減衰、「もの」の解体 
 津波ピアノ 脱人工調律
 tuning, tune, tend, tension, tendence, tendency…
 エントロピー、ネゲントロピー

それはおそらく、

 坂本龍一は、テクスチュアの人であって、どちらかというと、「連続的で自然的で有機的で情動的な音の連なりとしてのメロディー」の人ではない。

ということとも、関係しているのだと思う。
 
 The Revenant Main Theme

 吉本隆明との対話を引いておこう。

(殴り書きですみませんが、そのうち、形式を整えたいと思います。とりあえず、思うところ、思うままに、書きつけていきます)

 坂本さんの、耳に、少しでも近づくために。

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