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seisan(自作小説)

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seisan

 ひと月前にうけた誘いを快諾、先日参加してきた同窓会にて、かつて憧れていた女性に再会した。
 それは決して望んだものではなかった。かつての思い出を、どうして今さら掘りおこさねばならないのか。美しき思い出は決して、綺麗なものばかりではない。そこには往々にして、愛さざるを得ない、恥ずべき汚濁が含まれている。

 戦争のような日々の末に中学受験を終え、目標とともに熱意を失ったまさにその時、僕は自由を知ってしまった。それには責任が伴うことを直観してしまった。意識を現実から守るため、堅固な壁を築き上げ、そこへ幽閉してしまった。
 このような自己手術を施した無意識の狡知を前に、周囲の人間はなす術がなかった。一度絶たれた緊張の糸をより合わせる、一番確かな方法は痛みであろう。それは意識に、ここは安住の地ではないと教え諭す。しかし壁はあまりに厚く、聞こえてはいるものの、真の恐怖を知らせるには及ばない。ひとまずの危機を乗り越えてしまった無意識は、そこに留まる為ならば、耳障りな騒音すらも愛して受け容れた。

 そんな僕が芽依と出逢ったのは二年生に上がり、同じクラスになったころのこと。芽依は音楽の授業で合唱をする時、一人椅子に座りピアノを奏でていた。調べは明るいはずなのに、僕の耳には悲しげに聴こえることがあった。それは自身のうちに隠されていた悲しみが、不意に伴奏の形を借りて現れたからなのかもしれない。
 気づかぬ間に憧れの感情は育っていく。自覚した後に友人に明かすと、変わった趣味だなと言われたものだ。世間一般に言われる美人から、芽依は少しずれるのかも知れないが、そんなことはどうでも良かった。芽依のまとう空気は他の女子とは少々異なり、神秘的にさえ感じられた。
 彼女を想うことによって僕は浄化される——このような感慨はやがて確信となった。当時悩まされていた薄汚い欲望から、芽依はどこまでも無縁な存在であり、いつしか僕はそれをすっかり忘れ去っていた。
 芽依に一体何を与えられるのだろう。如何にすれば芽依の隣に相応しい人間になれるのだろう。僕は憑かれたように、このようなことを考えるようになっていた。虐げられていた意識は息を吹き返し、行動原理を見つけた僕は新しく生まれ変わった。
 本人に想いを告げてからの一週間は、気が遠くなるほどに長かった。返事を聞いた時は悲しみも怒りもなく、ただ脱力だけがあった。それ以来、偶然芽依とすれ違うことがあっても、心の距離は何十万キロも離れているように感じられ、一度上がった成績も次第に元に戻っていった。

 同窓会では専ら、皆の近況を聞くだけの役にまわった。たまにこちらが聞かれると、やむなく自嘲気味に答えた。それでも自室に籠り、さまざまな思慮の網に雁字搦めになるよりよほどましなひと時だった。
 そこで悟ったのは、自分にはもう何も恐れるものがないということだった。その場で確認されている懐しき友情も、決して確固たるものではなく、その気になれば手放してしまえる、ある意味よそよそしいものになってしまったということだった。
 この冷めた認識は僕を突き動かした。断られるのを覚悟の上で、またどこかで会えないかと芽依を誘った時、まるで自分が自分でないかのように感じられた。
 後日、とあるフランス料理店を二人で訪れた。誘った時の独特の浮遊感は、当日もまた僕の心を支配していた。
「この前も話したけど、今日は三時間ぐらいしか一緒にいられないの。ごめんなさい」
「構わないよ。それだけあれば十分だ」
 コースの前菜が出されて間もなく、美しい所作を見せる芽依の左手の薬指が目に入った。
「その指環、この前もつけていたね」
「呆れた。はじめから気づいていてこんな所に誘ったの」
「ああ、そうだよ。これから繰り広げられるのは、その場限りの一幕なんだ」
 相手は入った会社と同じ男で、先月婚約したとのことだった。同級生のうち、まさか彼女がここまで早く結婚するとは今まで夢にも思わなかった。
「どうしてあなたの誘いに応じて、ここまで来てしまったのかしら。自分のことがよくわからないわ」
「言ったでしょう、その場限りだって。今は誰のことを考えているの?」
「それはあの人のことを」
「じゃあ何も気に病むことはない。それは杞憂だよ」
 魔法の解ける時間が、刻一刻と差し迫っていた。数分が経てば、あの恐ろしい日常が津波のように押し寄せ、すべてを無へと帰してしまう。最後に僕は、ついこの前まで続けていたアルバイトを辞めた話をした。
「一度小説一本に集中しようと思うんだ。次の新人賞は必ず獲る」
「小説を書いていることは噂で聞いているよ。うまくいくといいね」
 そして僕らはほぼ同時に腕時計を見た。「もう時間ね」という芽依の声が、どことなく哀切の響きを帯びているように、僕には感じられた。

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