就活が唯一教えてくれたこと

大学3年生の三月、就職活動真っ只中。6個目のエントリーシートを書きながら私は死にたくなっていた。生きていける気がしなくなっていた。

もともと何に対しても受動的で活発ではない私は通常通り就活も始めるのが遅かった。焦りが積もり積もった2月、なんとかなるだろうという思いのもとやっとゆるやかに就活を始めた。始めてすぐ私は暗い気持ちを感じた。でもこの時はこの暗い気持ちはただの就活に対する怠慢で、意識するに値しないと思っていた。  

暗い気持ちをぶらぶら抱えながらだらだら就活を続けていた3月のある日、私の暗い気持ちはいつにも増して暗かった。そして私は突然泣き出した。母と妹が祖母の家に遊びに行くために玄関を出た途端涙が溢れた。私も行きたかったという気持ちと、そんな気持ちを覆い尽くすほど大きくなった暗い気持ちに私は襲われていた。それでもまだ私は、暗い気持ちの正体はやることがいっぱいあって止めどないことへのストレスだろうと深く考えようともしなかった。深く考えることが大好きだったのに。

その日から3日ほど後、私はまた号泣した。滅多に泣かない私が1週間で2回も泣いた。なんだかよくわからないけど操れない自分の機嫌を収めようと自分の部屋に1人横たわってる時、母がどうしたのと声をかけてきた。1人になりたいだけ、そう答えた途端涙がぼろぼろ出てきて止まらなくなった。苦しくて苦しくてたまらなかった。こうなってやっと暗い気持ちがただものでないことをうすうす感じていた。でもやっぱり深くは考えなかった。深く考えることがとても疲れることになっていた。ただ少しだけ死にたかった。

2日後、調子がなんだかよかった私は6個目のエントリーシートを書いていた。休憩中、隠れていた暗い気持ちがまたひょっこり顔を出して私は机へ戻れなくなった。でもいつもより調子がよかったから、私はその暗い気持ちが何なのか考えてみようと思った。考えて考えて、「人生は絶望、死は救済」と思った。確信した。

私は就活に対する息苦しさの正体を自分の準備不足や他人と比べての劣等感、やらなければならないことが多すぎるストレスだと思っていた。もちろんそれらもある。けれど1番の息苦しさは、「自分らしさを否定しなければならないこと」だった。

わたしは昔から思考を巡らせるのが好きだった。思考をぐるぐるさせて状況とか感情を紐解いて、人とか人生とか自分自身とか抽象的なことを悲しく暗く分析することが好きだった。それは私の長所とは言えずとも、私の1番の特徴で自分らしさだった。だから私と同じような思考をずっとしているTwitterも好きだった。なにもノウハウを知らないで初めての面接を受けた時、私はこれをありのまま全て話した。自分は暗い思考が好きなこと、だからTwitterを読むのが趣味であること。そして落ちた。

今の私からしたら落ちて当たり前だ、と思う。でも今の私はその当たり前に殺されかけている。

ノウハウや書き方や魅せ方を学んで取り組むにつれて、私は私の自分らしさを消していった。だってそれは絶対に社会には受け入れられないから。良い風に言い換えることもできるのかもしれない。でも良い風に言い換えた時点で、私の自分らしさは私の自分らしさではなくなる。悲観的な思考を明るく前向きに論じた時点でその思考は死ぬ。自分らしさを殺すことなんて絶対したくなかった。

だから私は社会のウケの良さそうな出来事を自分の経験から無理矢理引っ張り出して、ビヨンビヨンに薄っぺらくなるまで伸ばして語った。そして疲れた。疲れながら未来のことを考えた。

私は人間として生まれた以上ずっと社会の中で生きていかなければいけない。社会に参加しなければならない。その社会参加の一歩目を踏み出す時、私は大事な大事な自分らしさを否定された。そしてこの大事な自分らしさは、社会が求めるものの正反対であることを悟った。いつかは変わるかもしれないけれど、少なくとも私が物理的に年老いて死ぬくらいの年齢までは、この関係は変わらないだろう。つまり、私は生き続ける限り、社会の視線を内面化して自分らしさを疑問視し否定し続けなければいけないのだ。

褒めてほしいわけじゃない。理解してほしいわけでもない。ただ、そういう人もいていいよねって認めてほしかった。

私は私の自分らしさを大切に思っている。そんな宝物を否定されながらあと80年も生きるなんてできるだろうか。人生は絶望、死は救済。私の暗い思考はどんどん社会から逃げていく。何のために就活をしているのかわからなくなって、6個目のエントリーシートを書き終えることができない。







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