エッセイ

エッセイに手を出してみることにした。
私は表現することが好きだ。
曲を作ったり、ふとお芝居を始めたくなったり、ダンスに手を出してみたり、ステージで表現することが大好きだ。
と、同時に家にこもることが同じくらい大好きだ。
家にこもれば、ふと部屋の汚れが目につき掃除を始める。「掃除スイッチ」が入ると止まらなくなり、モノの置き場所ひとつにまでこだわりはじめる。かと思えば、外に目が行くと掃除のことはうっかり忘れてしまう。
私、なんでも好きだなあと思う。
外にいれば人と交流しあうことがめちゃくちゃ楽しいし、家で1人で黙々と絵を描くことも大切だ。私はてんでぶきっちょな人間なのでつい一つのことをやってしまうと「外側だけ」あるいは「内側だけ」になってしまう、0か100かで生きてしまう節がある。
外に出てばかりでいると、ある日ふとこもり体質な内側の自分が悲鳴をあげて突如外に出たくなくなってしまうことがある。そしてしばらく引きこもるのだが、そうするとどんどん色んなことが億劫になってしまいずっと家にいたくなってしまう。動きがなくなると、油断するとどんどん止まってしまう。止まることは死を意味する。人間は油断するとすぐに死に向かってしまうと吉本ばななさんがエッセイで書いていたけど、ほんとうにその通りだと思う。
両方が大事なのはわかっているけどいつもうまくバランスがとれない。それは、私が内なる小さな私の声を聞くのが下手くそだからである。
いつも内なる小さな私はその時々のベストを知っている。だから彼女の声に耳を傾け、仲良くしていきたいのだけど私にはそれがとても難しい。

子供の頃から自分のやりたいことってよくわからなかった。
わからないから、自分に自信がないから親がこの服が可愛いじゃない!と言えば可愛い気がするのでそれを着るし、この芸能人が好きとかこういうタイプの人って面倒な人とか、モノの扱い方ひとつまで親の好みをそのままコピーしてやり過ごしてきた。
だけど、いざ一人暮らしをしてみてはじめて、あまりにも自分がからっぽであることに気がついた。
否、からっぽというより、内なる小さな私の声を聞いてこなさすぎて、何が好きで何が嫌いなのかわからなくなってしまっていたのだ。そんなことに親から離れてみてようやく気がついた。
だから、今はほんとうに少しずつ。その子と仲直りをするところからはじめている。
100円ショップでランチョンマットを買うとき、イチゴ柄がいいかさくらんぼ柄がいいか、そんなことひとつ私は時間がかかってしまう。だけど内なる私に「どっちがいい?」と聞いて「こっち!」と声を上げてくれるまで私は愚直にその子と向き合う、そんなことが少しずつできるようになってきた気がする。
油断するとすぐ内なる小さな私の存在を忘れて、色んなことを雑にしてしまう不器用な私だけど、ベストを知っているのは私ではなく、その子なのだ。だから少しずつ仲直りをすること。
いちいちその子の声を聞きながら選択をしていくことは正直面倒だと思ってしまう。
だけど、遠回りなように見えてきっとそれが一番の近道なのだ。
まずは、外に出て「疲れたなあ」と思ったら内側を見つめ癒す。そしたらまた外に出ていく。少しずつ小さな私と手を取り合い、サーフィンの波に乗るみたいに流れに乗って生きていきたい。
小さな私をいつも愛せる私になりたい。
なぜならその子は、私がその子を忘れる日も悲しい日も嬉しい日も、どんな瞬間も私のことを見守っていてくれるからである。


小さな私に「これ宝物だから載せて」って言われて載せた写真。
大好きな星野源さんの初めて行ったライブのグッズのトートバッグ。雑に扱っちゃってボロボロになってしまったけど、一生忘れられないあのライブの思い出がよみがえる、たからものなのである。


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