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わたしの令和6年能登半島地震体験


はじまり

2024年1月1日の午後4時10分、わたしは実家の二階にある寝室のベッドで昼寝をしていました。揺れた時は「うわ、これ大変なことになるかも」と思いつつ、「家が壊れて屋根が落ちてこない限り、大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせてそのまま横になってました。

揺れがおさまってからはまず猫が倒れた本棚の下敷きになっていないか確認。いないことを確認してホッ。倒れた本棚を一応もとのように立てましたが、後ろの板は外れて割れていました。そして本棚の中身は散乱させたまま、一階に降りて家族の安否を確認。家族は無事だけれど猫がいないとわかると一旦猫のことは諦めました。縁側の窓がことごとくズレたり外れたりして自由に家の出入りできるようになってしまっていたのと私自身、ちょっとしたショック状態にあったんだと思います。

実家がある中能登町の震度は6弱と人生最大の揺れでしたが、2007年にもこの家で震度5の揺れを経験していたのが幸いしたかもしれません。あれから「もしも大きな地震が来たら」と最悪のことを想定して部屋の家具の位置を決め、どんなに揺れてもベッドの上にものが倒れてこないようにしていました。

猫の行方

地震前日の実家の猫

実家の猫は室内飼いにしているので基本的に外の世界を知りません。脱出もまだ数回。恐怖に駆られて走って出ていったらもう帰れないかも、と不安がよぎり、庭で猫の名前を何度か呼びましたが姿は見えませんでした。

で、なぜかその時はもうしょうがない自然に任せようと思ってしまったのですが、母がわたしのベッドの下で猫を発見。見に行くとベッド下の奥の暗がりにうずくまっていました。名前を呼んでも、大好きなチュールを使っても、餌や水を置いてもまったく動きませんでした。きっと怖くて怖くてたまらなかったんだと思います。

そのまま部屋の部屋の扉を閉めて、とにかく猫も含めて家族全員無事でよかったと思いました。家具が倒れて家がめちゃくちゃになっていたから余計そう思えたのかもしれません。

水道が使えない

はじめの揺れから確か数時間は普通に水道が使えました。電気もネットも使えたので、心配なのは灯油がなくなることくらいかなと思っていました。でも、水道の水は止まり断水生活が始まりました。

もしかしたら水道が止まるかもと、やかんいっぱいに入れておいた水がありがたかったこと。冷蔵庫や物置を探してもミネラルウォーターは少ししかありませんでした。その日の夕食はすき焼きにしたいと母は思っていたようですが、節水することにして、おせちの残りをおかずにしてご飯を食べました。

水道が使えないとなると、お風呂はもちろん、水洗トイレも普通に使えません。幸い、うちの庭には池があり豊富に水はあるのでバケツで池の水を汲み、水洗トイレを使ったらタンクに水を足すことにしました。で、驚いたのですが、水洗トイレを一回使うと大でも小でも約バケツ一杯の水が必要です。寒い夜中に池の水を汲むなんて大変な被災生活だなあと、まだこの地震の全容を知らないこの時点では思っていました。

断水二日目

次の日もまだ水道は使えないので、弟夫婦はまず玄米を無洗米に精米して来てから、近くのドラッグストアへ水を買いに行きました。と言っても地域の人みんなが水を買いに行ったわけで、ドラッグストアにはすごい列ができ、結局3時間以上並んで買えたのはまだ在庫があった500mlの強炭酸水のペットボトル4、5本でした。

一方わたしは町の情報を役場のサイトでチェックして、午後3時から給水所で水がもらえることを確認。そこでバケツとタンクを手に、車に乗せてもらって行ってみたのですが、片道車で20分、着くと車のものすごい列ができていました。そこで車を降りてすぐ列に並び、たぶん15分ほどで水をもらいました。迎えに来てもらって帰りもまた20分。つまり、8リットルほどの水を確保するのに1時間弱かけたわけですが、バケツに入れた水は車の揺れでかなりこぼれていました。こういう場合は他の方たちがしていたように、バケツにビニール袋をかぶせ、その中に水を入れた方が良いようです。

結局、あれから1週間以上経った今も、実家の地域ではまだ水道からの水は飲めず、トイレや洗濯など用途が限定されています。また実家の水道管には漏れがあるようで修理が必要ですが、すぐに修理の人に来てもらえる見込みはありません。ただし家の近くに給水所ができたので、それほど飲料水には困らなくなりました。

縁側の窓をもとに戻す

外れてしまった縁側の窓

後で罹災証明に使えるからと母から家の写真を撮るように言われ、家の壊れている部分の写真を撮ってみました。うちの実家の場合、物はさておき家の主な被害は

  • 壁にひび

  • 窓が外れたりズレたり落下して割れている

  • トイレのタイルが割れる

で、当面住むのに支障があるのは縁側の窓問題でした。このままでは雨風がしのげませんし、防犯上もよろしくありません。

1月2日が晴れてそれほど寒くなかったのは本当にありがたかったです。築100年以上のこの家の縁側はかなり歪んで大変でしたが、ジャッキと父の大工道具を使ってなんとかもとに近い形にまで戻せました。それにしても、窓ごと縁側に倒れたりしてたのに、まったく割れていなかったのは不思議です。

金沢に帰る

地震を生き延びた花とツリー

三日目、弟夫婦とわたしは能登から金沢に帰りました。きっと金沢もひどいことになってるのでは、金沢の部屋の窓も外れてたらどうしよう、と心配しましたが、帰ってみると机がひっくり返り、花瓶やディスプレイが落下してはいましたが何も壊れていませんでした。

そして何よりありがたかったのが水道が自由に使えることでした。バケツに水を汲むことなくトイレを使い、今年初めて顔を洗い、水を好きなだけ飲んでから爆睡しました。水を運び縁側の窓を支えた2日間で全身が疲れていたようです。震源から多少離れた安心感もあったかもしれません。

と言っても、どこか張り詰めた気持ちは続いてますし、ホッとしたと思うと余震が来てまた緊張状態に戻ります。もともと出不精ですが、今は拍車がかかった状態で、ベッドの下から丸一日動かず、食べなかった実家の猫の気持ちがよくわかります。どこか安全な場所にずっとこもっていたいのかもしれません。


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