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彼らにしあわせになってほしいと思うのは酷なことだろうか

流浪の月 / 凪良ゆう


※中盤部までのネタバレ有。

話題が積み重なって、サイン本に浮き足立って。気がついたら、購入から8ヶ月経っていた。

19歳の男が、9歳の女の子を誘拐した。その一文は間違いなく世間の関心を惹く事件で、この物語の芯となる事件だ。

酷く、苦しくなるような事件が沢山報道される世の中だな、と思うことが度々ある。
良くも悪くもネットワークが社会に根を張っていて、いいことがあっても悪いことがあっても、タップひとつで見ることの出来るようになった。
悲惨な事件も、苦しくなるような事故も、加害者も被害者もその周りの人も、わざわざテレビカメラが現場に行かなくとも、SNS上だけで共有されるような、良くも悪くもそんな時代になった。

これがいいことなのか悪いことなのかは一概に言えないけれど、安易に他人に興味を持てる環境だな、とは何度も何度も思う。

いつもなにか変わったことが起こる度に、SNS上の無関係な人たちが一斉に攻撃に移る。
最近、1人の住民の声によって子どもたちの遊び場が潰された、という出来事があった。SNS上で関連ワードがトレンド入りするほど議論は加熱していて、どうやら全国ニュースでも取り上げられるほど、そしてその自治体が会見を開くほど大きなニュースになった。
SNS上では訴えた1人の住民と自治体が結構な温度で叩かれていて驚いた。
その住民を、そして潰すことを決めた自治体を叩いていいのは、その遊び場を利用していた人間、近くの学校の子、もっと広げればその自治体の管轄に住んでいる人、当事者はそのくらいじゃないのだろうか、と思う。

SNS上で騒ぐ当事者以外の彼らは、なにか関係があるのだろうか。
その遊び場を利用したことがあるのだろうか。20年後に開けるようなタイムカプセルでも埋めたのだろうか。無くなって困るような、何か思い出でもあるのだろうか。
遊び場ができる前から住民が住んでいたのだとしたら、その住民の声を100叩けるのだろうか。大事に住んできた我が家を簡単に「うるさいなら引っ越せばいい」と言えるのだろうか。
その自治体が遊び場を潰す決断をした時、その自治体はなにか彼らにしたのだろうか。自治体は彼らに直接的に害を与えたのだろうか。
その住民に殺害予告をするほど、自治体の仕事を滞らせるほど、彼らはこの決断に直接的な害があったのだろうか。

ほかの事件でもそう思うことがある。
涙出るほど辛くて苦しい事件が多く共有される世の中で、嫌な気分になるのも、報道されている加害者に「どうしてそんな惨いことをするんただろう」と思うのも、本当に分かる。反省していないふざけたような記者会見を見て、自分たちが何をしたのかわからせようとするのも、叩きたくなるのも、分かる。

けれど、そういった所謂加害者を叩き続けていいのは、直接的に被害を受けた人だけだと私は思う。

関係ない当事者以外の誰かが許そうが許すまいが、そこに存在しているのは当事者間の問題であって、そこに司法が関わってくる、それだけだ。

当事者以外にもタップひとつで情報が入ってくる世の中で、嫌な事件を目の当たりしてスルーするのは難しいこととは思うけれど、当事者との関わりや働きかけがない以上、そこにどんなかたちであれか介入するのはおこがましいなと思ってしまう。




19歳の男が、9歳の女の子を誘拐した。その一文は間違いなく世間の関心を惹く事件だ。
「家内更紗ちゃん誘拐事件」と示された事件を、一傍観者として上っ面だけ把握しようとすると、そこには明らかに“加害者”と“被害者”が存在している。
しかし、彼と彼女の立場から見ると、それは果たして正しい認識なのかはきっと分からなくなるはずだ。

何も知らない無関係者が“よくあるモデルケース”に当てはめて、あることないこと喚くのはつまらない事だけれど、
もしかしたら、どこかに存在しているかもしれない彼らにしあわせになってほしいと思ってしまうのは、酷なことだろうか。

そう願うことすら、彼らにとっては介入しすぎる無関係者かもしれないけれど、「小学生にマニキュアかあ」と、表面だけを見て自分の“普通”を相手に押しつけるような人間にはならないようにしようと改めて誓った。


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