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「やさしい想い出」を祈って、1週間

3月30日から塗っていたネイルを落とした。
ピンクと見紛うほどに淡いラベンダー、「やさしい想い出」という名前がついたネイルポリッシュ。
やさしいと言うには楽しすぎる弾けるような時間から、これをやさしさ(愛)と言わずしてなんと呼べば良いのかわからないような時間まで。
たくさんのことがあった。

あれよあれよと1週間が過ぎる。
あまりにも落ち着かなくて、昨日は仕事が終わったあと帰り着くまで動悸がおさまらなかった。
起きたことや思考について向き合う時間が足りないんだろう、ということで、ここからは書き散らしである。
どんなに拙くてもことばにしなければ、書かなければ、息が詰まってしまう。

たくさんのことがあった。
「他人と一緒に生きること」「変わっていくこと/変わらずにいること」について、ぼんやりと考え続けている。

私という人間はとにかく、やさしいね、大人だね、と言われてきた。
小さい頃は純粋にやさしさがあったような気がするし、それをアイデンティティにしていたような気もするが、今はそう言われるたびに、果たして本当だろうかと思う。
私はたぶん、人より他人に合わせるのが苦でないだけだ。
何においても特段強い希望のない私よりも、少しでも何らかの希望がある人を優先したほうがいい。

その他、たとえば他人が何をしたとしても、どんなふうに変わったとしても、逆にまったく変わらなかったとしても、「まぁあなたという他人の人生だしな」の一言ですべてを受け流す自信がある。
あくまでも「受け流す」自信である。「受け入れる」自信ではない。
嫌なものを見たら「あなたの考えは理解した、その上で、わたしとは違いますね」でブロックする。

果たしてこれを、「やさしさ」と呼べるのか。
冷たいなぁとずっと思ってきた。
小さな諦めとともに、自分のことをずっとそう思っている。
ねぇ、誰のことも好きじゃないんじゃない?何かが好きだとか、そういうものもぜんぶ思い込みなんじゃない?全部ぜんぶどうでもいいんじゃない?
だって、ほんとうにやさしいのなら、目の前にいる人が楽しくなるように、自分の意見を持てるはずじゃない?ほんとうにやさしいのなら、そんなに簡単につながりを切ったりできないはずじゃない?

時に攻撃してしまうほどの熱量でもって人を好きでいるところを見かけると、少し羨ましくすらある。
そういう状態にやさしさが含まれるかはわからないが、少なくとも冷たくはないはずなのだ。熱い熱い。生命力がすごい。羨ましい。私にはできない。

こういうことを考えるたびに性懲りもなく涙が出る。
先述のようにだいたいのことを魔法のことばで受け流せるが、この世で唯一死ぬまで許せない人間がいて、私のこういうところはそいつにそっくりだからだ。
これは呪詛だ。覚悟しておいてほしい。許さない、死ぬまで絶対に。(これを読んでくださっている方の中にはいませんから安心してください。あの人はこれを見つけることはないので)

「十五の私は想像していた 三十年後の自分 五十年後の自分 今際の際の自分を」「そのころは何かを諦めているかしら 悔やむ昨日があるかしら 誰かを恨んでいるかしら」
8年後の私より。まあまあいろんなことを諦めます。悔やみっぱなしです。死ぬまで恨む人間がいます。
でも、15のとき一緒にいた人たちと、まだ15なのかと思うくらいに笑えます。(ひとえに彼女たちのおかげです。本当にありがとう)
まだちゃんと理解しきれない「やさしさ」について、これ以上ないくらいのものを教えてくれる、大好きな5人がいます。

明日布団から起き上がって活動できるかどうかすら、その日になってみないとわからないけど、おまえは考えすぎだと言われながら、なんとか生きています。
なんにも考えてない気がするんですけどね。

人は変わっていくものだし、風の匂いも、瞬間の速さも、例外ではない。
それをどう考えるか。
生きていく以上、こういうことの繰り返しなんだろう。

たくさんのことがあった。
まあ、考えていることはいつもとあんまり変わらないもんだ。

覚和歌子作詞・三宅悠太作曲「ひとめぐり-混声合唱とピアノのための-」
ヨルシカ「アルジャーノン」
JUJU「やさしさで溢れるように」
Sexy Zone「イノセントデイズ」

書きながら聴いていた曲たち

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