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可愛くなったおじいさん。 気がついてあげれなくてゴメン!

家のおじいさん(主人の父)は、お好み焼き、焼きそば、お菓子や、雑誌などを売る店を営んでいた。
地方から出てきて工場などで働いている男の子達が多い下町で、その子達が、銭湯の帰りに立ち寄って、冷たいものを飲んだり、雑誌を読んだり。
おじいさんに故郷の話をしたり、仕事の愚痴をこぼしたりすることで、慰められたりするそんな温かい場所だった。
主人と結婚して、そこで一緒に暮らし始め、近所付き合いも密で、同じ市内でも、今まで住んでいた所とは、雰囲気が違って、いろいろな暮らし方をしている人がいるのがおもしろかった。

その家は、伊勢湾台風で、前の家が水浸しになったあと、買ってあったこの土地に新しく、建てた家だという。
引っ越してきた時より、どんどん交通量が増えてきたのと事。

私が結婚した時は、国道と環状道路の交差点のその場所は、排気ガスが酷くて、その排気ガスのせいでテレビの画面がすぐに真っ黒になったり、布団を干しても、取り入れる頃には表面がホコリでザラザラになるなど、今までの暮らしでは考えられない環境に、時にはどうしょうもなくイライラした。
親と離れて暮らすなど考えられない主人だったので、すぐに引っ越すなど考えられず、我慢をするしかなかった。
子どもが生まれてからは、早く、どこか空気の良い所へ引っ越したいと思うようになって、主人にいつも訴えていた。

そして、お店のお客さんも少なくなって来た時期を見計らって、おじいさんに引っ越しの話をして、今の家にみんなで引っ越すことにしたのだった。

越してきて、しばらくして生活が落ち着いた頃、おじいさんは自分で新しい仕事を探してきて、新しい職場で働き、生き生きと新しい暮らしを楽しむようになった。
店をやめて落ち込むかと心配していたが、
おじいさんの柔軟な生き方を見て、すごいなぁと、主人と私はちょっと感動したものだ。

とても面倒見が良くて、どこに居ても、誰からも良い人と言われ、充実した日々で楽しそうだった。

おじいさんの奥さん( おばあさん )は、身体が弱くて一日寝たり起きたりして暮らしていた。
私は、退屈かなと思って、絹さやの筋取りなどを頼んだりしてみたが、その度に断られて、もう何も頼まないことにした。
おじいさんは、おばあさんを、それはそれは大事にして、何でも言うことを聞いてあげていて、仲の良い夫婦だった。

そんなおばあさんにとっては、新しい暮らしは、おじいさんが自分に向けてくれる時間が少なくなって、一人でいる時間が多くなって、不満が溜まっていく日々だった。

何年か過ぎて、おじいさんは年を取って仕事ができなくなったのだけど、おばあさんが弱くなっていくのと、足並みを揃えるように、二人は自分達の世界に入っていった。
が、時にはこちらの世界に戻って、昔ながらのしっかりしたおじいさんで。
時には、あっちの世界の住人になってしまって、あれっ?というふうであった。

おばあさんが亡くなったあとしばらくして、お墓が決まった頃からか、おじいさんの認知症が進んでいった。
困ったこともあったけど、性格の良さが残って、おじいさんは可愛くなっていった。
可愛いおじいさんになったのだ!

おじいさんの認知症が進んだのは、多分、おばあさんが亡くなったことが大きな原因。

おじいさんは、お世話する奥さんもいなくて、仕事もなくて、寂しさ、辛さから逃げるために自分の世界に入るしかなかったのだと思う。
いまは、それが分かる。でも、その時、私は分からなかった。

その頃の私はと言えば、おばあさんのお世話で疲れていて、苦しまないで亡くなったことに、ホッとしたというのが正直な思いだった。
 ( おばあさんは、夜の間に、誰も知らないうちに一人で逝ってしまった 。同じ部屋に居ながら…。 )

そして、その時の私は、これから一人になったおじいさんをお世話していかなければということで頭がいっぱいで。
おばあさんは年を取っていたし、いつかは亡くなることは、仕方のないことで
身体が弱かったおばあさんの割には、よくここまで頑張ったな、というのが本音で、
おじいさんの辛さには思い至らなかった。

私は、仏壇の飾り方、仏事の準備などについて親戚からの指導の言葉があって、ちゃんとやらなければと、そちらの事ばかりを気にしていた。
私は私で、てんぱっていた。 

連れ合いが亡くなって、残されたおじいさんにしたら、どれだけの寂しさ虚しさ悲しさの中で生きていかなければならないか、どれだけ辛い思いをしているか、ということに考えが思い至らなかった。
主人を亡くして、自分自身が辛い思いをして身に沁みたことで、その時、私はおじいさんの心の本当の寂しさは、分かってあげられなかった。
おじいさんはほんとうに辛かったと思う。

とはいえ、おじいさんは持っている性格の良さと、持っている頭の回転の速さで、人との会話では、
おじいさんの周りにはいつも笑いがあった。

半年に一回、介護度の調査の人が見えるのだけど、認知があるとはいえ、
「今日は何月何日ですか?」の問いに、おじいさんの返答と言えば、
「 ワシは知ってるけどよ、あんたが知ってるかどうか、先に言ってみゃぁせ 」と、
じょうずにとぼけて、はぐらかしてしまうのだった。
そのくせに、「 何歳になられましたか?」の問いには、
「 さぁ、いくつになったかなぁ? まぁ、30になったかなぁ 」 という具合で。
傍で聞いていても、吹き出すような会話をしていた。

おばあさんの時は、認知症についてあまり知らなくて、受け入れることが難しかった。結構、我儘を通す人だったので、可哀想にと思っても、かわいいと思うことはなかった。
だが、おじいさんは、だんだんかわいくなっていった。
思い出すと、楽しい思い出が読みがえる。

おじいさん、いたらない嫁だったけど、最後まで、楽しく一緒に暮らせました、ありがとうございました!





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