食品ロスと給食の残飯

給食のご飯(お米)が残る量と,その日のおかずの種類には関係がありそうだ。ご飯にかけて食べる牛丼の具や,パンに挟んで食べるカツサンドのカツ,ソフト麺を入れて食べる汁物がおかずの時は,ご飯やパンやソフト麺の残る量が少ない。つまり,主食とおかずを一緒に口の中に運べるようなおかずの時に,主食の残りが少なくなる。

そんな考察を聞いたのは,上の子の小学校での学習発表会と呼ばれる会でのことでした。妻と連れ立って出かけ,「自分は食品ロスについて調べた。給食の話をすんだ」と言っていた子の発表の1つの結論がそれでした。

この子の発表を聞いて,いたく感心しました。親バカですが。
他の子どもたちが,本やネットにある情報をまとめ直す形で発表する中,自分で給食の残飯の量を調べ,それとおかずの種類に関係があることを指摘し,ある種の説明(解釈)を与えていたのが,我が子の発表でした。

こんなことを書いて,子の自慢をしたいわけではありません。(こんなことがなくたって,自慢の子ですし。親バカですが。)
言いたいのは,オリジナルのデータをとって,それについて解釈・説明を与えるということの重要さです。

この「オリジナルのデータをとって,それについて解釈・説明を与えるということ」,かつて受け持ってきた1年生向け基礎演習でも私は強調してきたつもりで,毎年やっていた1年前期のグループ発表や1年後期のレポートに向けた調査なんかでも,調べ学習とは違って,自分でデータを組み合わせて新しいデータを作り出したり,作品や辞書などを調べて自分でデータをとることが重要だと言ってきました。

3年ゼミの卒論テーマ決めに向けた発表を聞く中でも,先行研究を調べる中で分からないことがあると,それは自分の調べかたが足らないのでもっと先行研究を調べるべきだと思い込み,そのわからないことが自分で研究・調査すべき「問い」になり得ることに気づかない人もいます。もちろん,見ている先行研究自体が少なくて不十分である場合もありますが,そうでない場合の方が,私の感覚としては圧倒的に多くて,「先行研究を調べたけどわかりませんでした」という時のわからないことの多くは,そもそも原理的にわからないことか,これまで本格的には調査されていないことだったりします。学部時代における指導教員の役目は,そのあたりの「嗅ぎ分け」を手伝ってあげることなのかもしれない,と毎年ゼミをしながら思っています。

真面目な人ほど,先行研究だけで全てわかってしまうかのように思い込んで,なかなか自分の「問い」を見つけられないでいるようにも思います。すでに,目の前に落ちているにもかかわらず,です。

一方で,先行研究を調べ,それらを組み合わせさえすれば,研究になると思ってしまっている人もいます。そういう人には必ず「あなたのオリジナルなデータをとることが大事だよ」と伝えます。

実は教員は,卒論テーマ決めに向けた発表の中でも,かなり初期の段階から,学生が「研究」というものにどういう考えを持っているか,わかっています。何も考えてないんだろうな,というのも含めて。

3年ゼミの人,それから,2年生以下で平子ゼミに入りたいという人で,もし,研究って何?どうしたらいいの?と思ったら,上で書いた子の話を思い出してください。簡単なものだけど,あれが研究です。

つまり,それまで見逃されてきた/新しい(言語)事実の発見/指摘とそれに対する説明が重要で,結局それに尽きます。

子の場合,調査はごくごく小規模で,サンプル数も一桁,それにその説明・解釈も稚拙なものです。でも,それまでおそらくクラスの中のみんなは知らなかったであろう「給食における主食の残りかたとおかずの種類に関係がある」という事実を指摘し,それに対して「主食とおかずを一緒に口の中に運べるようなおかずの時に,主食の残りが少なくなる(=主食を食べやすいおかずの場合に主食の残りが少ない)」という解釈を与えたのは,もう立派な研究だと思います。親バカですが(2回目)。

見逃されてきた事実・新しい事実を発見・指摘するには,オリジナルのデータをとる必要があります。そのためには,手を動かし,足を動かす必要があります。最初に勤めた大学の国語学のゼミでは,「ゼミ訓」として「調査命」を掲げていましたが,それも「オリジナルのデータをとる」ことの重要性を説いたものでしょうね。

また,最近,うちの院生さんが,私の前任の先生にばったりお会いした時に「事実の指摘,新しいデータの提供が大事だ」ということを言われたと言っていました。「その解釈は人によって違うのだから」とも。

同じ事実,同じデータでも,それに対する説明や解釈は人によって変わることがあります。しかし,まともな調査の結果として発見された事実やデータは,揺るぎません。

一方で,その解釈や説明がなければ,その事実やデータに意味があるかはわかりません。そして,解釈や説明は,ある種の理論の下でなされます。「理論なき記述などない」と言われる所以だと思います。

まとまりないですが,我が子の成長に感心しながら,そんなことを考えたのでした。親バカですが(3回目)。