平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

考える葦|Ⅰ-6|平野啓一郎

平野啓一郎の論考集『考える葦』(2018年9月発売 / キノブックス)より、『石川啄木』(ドナルド・キーン著)の書評を公開しています。

主に2014年〜2018年(それより古いものも)、第4期にあたる『透明な迷宮」『マチネの終わりに』『ある男』が書かれた時期の批評・エッセイを集めた論考集。平野啓一郎の思考の軌跡が読める一冊です。
(2018年9月発売 / キノブックス)

Ⅰ : 文学・思想

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ある男|23−5|平野啓一郎

城戸からの報告で、彼女の心を最も激しく揺さぶったのは、一通り話し終えたあとの次のような一言だった。

「亡くなられた原誠さんは、里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に、初めて幸福を知ったのだと思います。彼はその間、本当に幸せだったでしょう。短い時間でしたが、それが、彼の人生のすべてだったと思います。」

城戸の報告書は、大変な労作で、どうして彼が、自分のためにこんなことまでしてくれるのか、里枝は

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ある男|23−4|平野啓一郎

城戸の報告を受け取った里枝は、この一年余りもの間、失われていた夫の名前が、最終的に「原誠」だとわかって、ようやく彼と出会い直したような感じがした。とは言え、あの日、初めて店を訪れて以来、死に至るまで一緒に過ごした思い出の中の彼に、そのまま「原誠」という固有名詞を与えれば、それで済む、というものではなかった。

「大祐君」という生前の呼び名は、間違って使っていた他人の持ち物のようで、もうあまり触れた

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ある男|23−3|平野啓一郎

彼女は昔から、読書家という人々に一目置いていて、しかも残念ながら、自分だけでなく、前夫も亡夫も、その資質を欠いていた。つまり悠人は、父親とも母親とも違った人間として、いつの間にかそうなっていたのだった。その理由は、きっと彼の境遇のためだろうと思っていたが、彼女はそのことを、瓦礫からいつの間にか芽吹いていた花のように、美しいと感じていた。

家族に対しては無口になっていたが、その代わりに、ノートに何

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ある男|23−2|平野啓一郎

声変わりもして、近頃では、うっすらと髭も生えてきたようで、死んだ父親の電気カミソリをどこからか引っ張り出してきては、見よう見まねで使ってみたりしていた。DNA鑑定でも、その電気カミソリの中に残っていた髭が役に立ったのだった。

自分に白髪が増えるはずだと、里枝は息子のからだの成長を見ながら、つくづく思った。

城戸の調査結果を知らせるべきかどうかは悩んだが、既に偽名であることは伝えていたので、ある

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