第五章 洋子の決断 Part2

『マチネの終わりに』タイアップCD発売(2016年10月19日)を記念して、各シーンを振り返りつつ、登場する収録曲をご紹介していきます。今回は、バグダッドから亡命し、洋子の家に滞在しているジャリーラのために、蒔野がギターを演奏するシーンです。

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第五章 洋子の決断
(単行本 P.139)

 食事を終え、食器を片づけるのを手伝ってキッチンに向かうと、洋子がデザートの準備をしながら、日本語で、
「もう少しいてくれる? コンサートもあって、疲れてると思うけど。」と尋ねた。
 「もちろん。俺は大丈夫だけど、洋子さんたちこそ、疲れてるんじゃない?」
「わたしは平気。ジャリーラは、先に休むでしょうね。……そのあとで、話がしたいから。」
「わかった。」
 ソファでコーヒーを飲み、ケーキを食べると、蒔野はしばらく、ぼんやりとギターのケースを眺めていた。
「いや、せっかくだから、一曲、聴いてもらおうと思って。彼女に俺が出来ることは、それくらいしかないから。」
 うっかり日本語で交わしたその会話を、蒔野は改めて英語でジャリーラに伝えた。彼女は、彼がギターを携えて来たのを見て密かに期待していた風だった。うれしそうに礼を言うと、ギターの実物を見るのは初めてだと、目を瞠った。
 調弦しながら、蒔野は簡単な楽器の説明をした。今日のコンサートの記憶が、脳裏を過った。忘れるべきだった。演奏が止まったところで、別に、カラシニコフで撃ち殺されるというわけでもなかったのだから。……

 ジャリーラを見つめながら、こういう時には、何を弾くべきなのだろうかと考えた。その眼差しが露骨すぎたのか、彼女は恥ずかしそうに目を逸らして、頰を赤らめて洋子を見遣った。かわいいなと蒔野は感じた。本当にまだ、女子大生のようだった。
 自然と、耳の奥で音楽が鳴り始めて、彼はギターを構えた。そして、ヴィラ=ロボスの《ブラジル民謡組曲》の中から《ガヴォット・ショーロ》を演奏した。
 五分半ほどの質朴なあたたかみのある曲で、彼は、ソファで足を組んで、寛いで演奏した。ガヴォットだから、元々は二拍子の踊るための曲だが、彼は、幾人かの親しい友人たちが、ゆったりと流れる午後の時間の中で、気軽な談笑に耽っている光景を思い描いた。そんなふうにこの曲を解釈したのは、初めてだった。
 彼自身が、最近の何か面白い出来事を語り始めたギターに、微笑みながら耳を傾けているような気分だった。相槌を打ちながら、まさかと驚いたり、神妙に聴き入ったり、へぇと感心したり。……ギターを手にした子供の頃、実際に彼は、そんなふうにいつも、ギターで「おしゃべり」をしていて、両親や親戚、隣近所の大人たちに面白がられていたのだった。
 あの頃は、ギターを弾くのが楽しかった。郷愁は郷愁だと、蒔野はいつものようにそれを振り切ってしまったが、もう二度と故郷に帰ることが出来ないかもしれないジャリーラは、その微かに入り交じった感傷に、むしろ胸を打たれたようだった。
 彼が音楽から想像した、その平穏な語らいの輪の中には、無論、ジャリーラも含まれていなければならなかった。これから亡命して行く先の人々との団欒。いつか再会が叶うかもしれない家族との団欒。──最後のハーモニクスの一音を、蒔野は、彼女を笑顔にさせるまじないか何かのように、稚気を含んだタッチで響かせた。
 顔を上げると、果たしてジャリーラは、満面に笑みを湛えていた。感激したように拍手をして、動悸を抑えるように胸に手を当てた。洋子も、うれしそうに彼女を見守っていた。
「すごくきれいな曲ですね。何ていう曲なんですか?」
 蒔野は、洋子に紙とペンを借りてタイトルを書き、ジュリアン・ブリームのレコードを勧めておいた。
「蒔野さんは、レコーディングしてるの、この曲?」と、洋子が尋ねた。
「してるよ、大分前だけど。」
「わたし、そのCD、持ってないわね。──ジャリーラ、今度、一緒に買いに行かない? フナックっていう大きなCDのお店があるから。見て回ったら、きっと楽しいわよ。」
 それから、蒔野はふと、今年の初めにレコーディングしかけたまま、ほったらかしていた例の《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》を思い出して、ルイ・アームストロングの《この素晴らしき世界》とロバータ・フラックの《やさしく歌って》をワンコーラスだけ続け様に演奏した。
 ジャリーラも洋子も、「ああ、この曲!」と、また一段と表情を明るくした。蒔野は、その楽しそうな様子を見て、すっかり嫌気が差して止めてしまったレコーディングだったが、やっぱり完成させるべきだろうかと、少し思い直した。
 快活になってゆくジャリーラの様子に、蒔野は、自分が携わってきた音楽というものの力を再認識させられた。
 こういう境遇でも、人は、音楽を楽しむことが出来るのだった。それは、人間に備わった、何と美しい能力だろうか。そして、ギターという楽器の良さは、まさしく、この親密さだった。こんなに近くで、こんなにやさしく歌うことが出来る。楽器自体が、自分の体温であたたまってゆく。しかしそこには、聴いている人間の温もりまで混ざり込んでいるような気がした。

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★「第五章:洋子の決断」で紹介した曲の視聴
06.ガヴォット・ショーロ (ヴィラ=ロボス)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/d729n8md

07.この素晴らしき世界 (アームストロング/鈴木大介編)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/ls4a70jp

★タイアップCDの先行予約はこちらから(2016/10/19発売予定)https://storeshirano.stores.jp/

特典:新聞連載の挿絵を描いてくださった石井正信氏による「しおり」。毎日新聞での挿絵は、単行本に生かされませんでしたが、CDのブックレットにはふんだんに盛り込まれています。平野と福田氏の対談もぜひご覧ください。

★『マチネの終わりに』単行本ご購入はこちらからhttps://www.amazon.co.jp/dp/4620108197

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平野 啓一郎

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