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『マチネの終わりに』第六章(39)

 午後六時半頃、蒔野の自宅の電話がなった。恩師である祖父江誠一の娘の奏(かな)だった。

「どうしたの? 珍しいね。」

「実はあの、……お父さんが脳出血で倒れて、救急車で運ばれて。」

「……今どこ?」

「病院だけど、先生が、危険な状態だから、知らせるべき人には連絡した方がいいって言うから。聡史君には一応、と思って。」

 温厚な性格の奏は、気丈に落ち着いた口調で伝えたが、その声は、冷たい床の上に、裸足で立たされているかのように微かに震えていた。

 病院の名前と場所を聞くと、蒔野は、時計に目を遣って、「すぐに行くから。」と電話を切った。祖父江の死に目に会えないかもしれないということ、助かっても後遺症でギターはもう弾けないのではないかということなど、様々な考えが一時に溢れ出して、胸がいっぱいになった。病院の場所をネットで調べると、すぐに家を飛び出した。

 洋子にも連絡しなければならなかったが、状況がわかってからの方が混乱がないだろう。パリでの再会の時にも、ジャリーラの一件で擦れ違いそうになった。そういう偶然も、年齢的な必然であるような気がした。社会的な関わりが増え、親しい人たちが老いてゆく今であればこそ。――万が一のことを考えて、自分は長崎に行けるだろうかと、少し心配になった。

 通りに出ると、すぐにタクシーを拾って、病院の名前を伝えた。五十がらみの女性の運転手は、それがどこにあるかを考えてみることさえせずに言った。

「ああ、お客さん、すみません、わたしこのあたりは全然道がわからないんです。」

「赤羽橋です。」

「まだ新人なもので。……いつもは小金井の方を走ってるんです。ほんとにわからなくて。」

「そのナビで調べてください。急いでるんで。」

「ナビは、……急がれますよね。ちょっと、あの、アレだったら降りていただいた方がいいかもしれませんね。ごめんなさい。」


第六章・消失点/39=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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