『マチネの終わりに』第六章(52)

 目の前が光った。間を置かずに、巨木が真っ二つに引き裂かれるような音がして、何か悲劇的なまでに痛烈な落雷の地響きが伝わってきた。衝撃が、突然、洋子の乗っているエレヴェーターを停止させた。洋子は戦慄した。一人閉じ込められてしまったエレヴェーターの中で、逃げ惑う各階の人々の声が聞こえてくる。つい今し方まで彼女が話をしていた人々は、今は血塗れの遺体となって、ロビーの大理石の床に倒れている。あの大きなシャンデリアのクリスタルが、辺り一面に散らばって。――彼女自身が、そうなるはずだった。あと、たった一つ質問をしていたなら。「イラクに平和は訪れるのでしょうか?」という、その質問をしていたなら。そして、エレヴェーターに乗り込んだ彼女を見つめる、あの自爆テロ犯の目。……

 洋子は、自分がどうやって部屋まで辿り着いたのか、覚えていなかった。貧血のように、酷く気分が悪くなって、恐らく倒れたか、蹲るかしたのだった。

 ベルボーイが呼んだ医師の診察を受け、薬を飲むと、あとは一人にしてほしいと礼を言った。

 十時半を過ぎたところだった。パリはと計算して、まだ午後三時半だった。疲労の処置に困る時間だった。蒔野がパリに来た時にも、最初に時差ボケの話をした。パリから東京に向かう時の方が、その逆よりも重い、と。会えば、今度もきっと、そこから会話が始まっていたのではなかったか。

 気分が落ち着いたら、蒔野に連絡を取りたかった。しかし、何を話すべきだろうか? 彼の突然の心変わりの説明は、ほとんどあのメールに尽きていた。蒔野の音楽家としての不調については是永から聞かされていた通りで、しかも洋子は、自分の存在が彼の活動に良い影響を与えているのかどうかを絶えず気に掛けてきた。

 普段の蒔野のメールの文章ではなかった。しかし、自分は一体、普段の彼の何を知っているのだろうか? むしろようやく、彼は普段の自分のままで、これまで隠していた本心を打ち明けているのではあるまいか?

「自分を偽り、あなたを騙してしまう」という言葉が、何よりも深く洋子を傷つけていた。

第六章・消失点/52=平野啓一郎 石井正信・画

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平野 啓一郎

『マチネの終わりに』後編

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