『マチネの終わりに』第六章(18)

 猛暑で疲労が募っているのに加えて、寝不足のせいか偏頭痛がして、仕事をしていても集中力を欠いた。倦怠感があり、どこにいても、現実が、自分からは少し遠くに感じられた。腕を伸ばせば伸ばした分、歩き出せば歩いた分だけ、世界は彼女から遠ざかった。
 夢の容量が飽和してしまったのか、洋子はやがて、昼の日中に、何度か鮮烈なフラッシュバックを経験した。
 最初は、地下鉄の四番線に乗って、シャトー・ルージュに取材に向かう途中だった。
 この日も朝から気温は三十八度にまで上昇し、乗り込んでくる乗客たちは、ハンカチやタオルを手に、頭から噴き出す汗を紅潮した頬や首筋で押さえ、胸元に湿って貼りついたTシャツを引っ張って、風を通したりしていた。
 パリは人が出払っていて、観光客も少なく、空っぽになった街は、その分、降り注ぐ太陽の光に占拠されていた。地下鉄の薄暗い階段を降りると、先ほど歩いていた時には気にも掛けなかった噴水の眩しい煌めきが、意外に濃い残像となって視界に斑な影を落とした。
 洋子は、ドアの側の折り畳みの椅子に座って、仕事の資料を読んでいた。
 車内は汗臭く、クーラーの効きが悪いので、後ろの方で窓を開けている人がいるようだった。地下の闇にレールの軋む音が轟き、対向車両と擦れ違う際には、軽い衝撃が人々の肩を揺すった。観光客がいなくなり、ストラスブール・サンドニで、パリの北の方に住む人たちがパラパラと乗ってきた。
 洋子は、ドアが閉まってしばらくしてから、自分が誰かから見られているという気配を感じた。顔を上げると、向かいのアラブ系の若い男が、彼女に意味ありげな眼差しを送っていた。
 そこに一瞬、あの目が――洋子の記憶の中で、永遠に死の寸前で張りつめている、あの自爆テロ犯の目が――ちらと覗いて、すぐに眸の奥に隠れた。
 洋子は、手の震えを隠しながら、資料をバッグの中にしまうと、ゆっくり立ち上がってドアに身を寄せた。車内アナウンスが、次のシャトー・ドー駅を告げている。ドアのボタンを押した。開かない。彼女は、漆黒の車窓の奥に閉じ込められた、自分自身の姿を目にした。

第六章・消失点/18=平野啓一郎 石井正信・画

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平野 啓一郎

『マチネの終わりに』後編

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