『マチネの終わりに』第六章(43)

 蒔野は、呼び寄せるつもりで電話したのではなかったが、そう言ってもらえると心強かった。万が一の時の関係者への連絡など、奏(かな)の負担を軽減する意味でも、三谷がいてくれれば助かるだろう。

「じゃあ、そうしてもらえるかな。せっかくの週末に、申し訳ないけど。」

「わたしの仕事ですから。携帯、タクシー会社に取りに行きましょうか?」

「うん、……そうしてもらえると、助かるよ。じゃあ、電話してどこにあるか確認して、折り返すから。」

「はい。蒔野さん、こういう時ですから、遠慮せずに何でも言ってください。その方が、わたしも何をすればいいのかわかって助かりますから。」

     *

 三谷は、新宿で女友達四人と食事をしていたが、蒔野から小金井のタクシー会社に携帯電話があることを伝えられると、すぐに電車で取りに向かった。

 このところ蒔野の顔色は冴えず、特に自分に対しては、冷淡とさえ感じられていたが、グローブの野田と仕事をし始めてからは、幾分、表情も和らいでいた。音楽家としての活動に、幾らか展望が開けてきたのかもしれない。結局のところ、蒔野の幸福とは、それ以外にはないのだと彼女は信じていた。

 タクシー会社では、すぐに電話を受け取ることが出来た。蒔野からは事前に暗証番号を教えられていて、中を見て本人のものであることも確認した。そのために、三谷は図らずも、そこに複数件残された洋子からの着信履歴をも目にすることとなった。

 雨は、タクシー会社を出る頃には、また一段と酷くなっていた。

 夜の足許が、水しぶきで白く打ちけぶっている。

 中央線で新宿まで出る間、三谷は、乗客たちが互いに濡れそぼった傘を気遣い合う、蒸し蒸しした電車に揺られながら、今日からの休暇を、蒔野は洋子と過ごす予定だったのだということを考えていた。

第六章・消失点/43=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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