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『マチネの終わりに』第六章(30)

 洋子は、是永のいかにも悪気のない憶測を、あれ以来気に掛けていた。一旦芽吹くと、洋子の中には、夏休みの朝顔のように三谷の存在が幾つもの鮮やかな花を咲かせ、感情の隙間にその蔓を絡ませていった。
 一つ一つの花は、決して長くは保たなかったが、蕾の数はなかなか減らず、どうやらこの夏いっぱいは、続きそうだった。蒔野に会うまでは。――もし彼がすぐ側にいたなら、恐らくは本葉が出たくらいの頃に気がついて、怪訝そうな顔で、洋子の心の中からそれを引き抜いてしまっていたはずだった。洋子の心を乱していたのは、茫漠とした一万キロ弱に及ぶ東京とパリとの隔たりではなく、一ミリと違わず正確に、彼の肌から彼女の肌までの距離だった。
 ただ三谷だけが蒔野に寄り添い、その音楽活動の支えになっているその時に、自分の抱える問題が、蒔野の心を一層乱してしまうということが、どれほど深く洋子を傷つけるか、ジャリーラは知らなかった。そして、洋子の中の普段は穏やかな矜恃は、その一点に於いて今は痛々しく冴えて、ジャリーラは知る必要がないことなのだと思わせていた。
 必ずしも、蒔野が三谷に何か特別な感情を抱いていると、疑うのではなかった。
 それは、あまりに馬鹿げた想像だった。しかし、そうでなくとも、自分のせいで動揺する蒔野を、傍らで三谷が慰めるという想像には耐え難いものがあった。
 加えて洋子は、自分の体調の悪化には、リチャードとの婚約解消の失敗も影響していると思っていた。だとすれば猶更、この問題は、蒔野に累を及ぼすことなく、自分独りで解決すべきだった。
 もちろん、リチャードとの婚約破棄は、彼女だけの意志ではなく、そもそもは蒔野こそが、強く求めたことだった。しかし洋子は、彼女自身の気持ちとして、蒔野との新しい生活に、どうしてもリチャードの存在を持ち込みたくなかった。蒔野は無論、リチャードのことを知っている。しかし、それは抽象的な元婚約者としてでしかなく、彼の行動を説明し、その性格や考え方を蒔野に具体的に理解してもらう必要はなかった。

第六章・消失点/30=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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