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第三章 《ヴェニスに死す》症候群

 『マチネの終わりに』タイアップCD発売(2016年10月19日)を記念して、各シーンを振り返りつつ、登場する収録曲をご紹介していきます。今回は、テロから逃れ帰国を3日後に控えた洋子が、自室で蒔野のCDに耳を傾けるワンシーンです。バグダッドの夜の静寂のなかで、洋子はなぜ自分はここに来たのだろうと自問します。
 リンク先(テキストの下線部分もしくは記事最後の紹介リンク)をクリックすると視聴が可能です。

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第三章 《ヴェニスに死す》症候群
(単行本 P.68)

 洋子は、少し体を起こして、枕元のリモコンでCDを再生した。蒔野の二十代後半の演奏で、バッハの無伴奏チェロ組曲第三番だった。
 軽やかに高いソの音から音階を駆け下りてくるプレリュードの冒頭が、彼女の胸に、明るく澄んだ光をすっと差し込んで、しばらくその存在を音楽で独占した。
 ギターのためにハ長調からト長調に移調されている。それだけでも随分と印象が違った。
 カザルスに始まって、ロストロポーヴィッチ、フルニエ、マイスキー、……と、彼女はそれぞれの時代のチェロの大家たちのレコードを、過去に散々聴いていたが、この曲を本当に好きになったのは、この死の都市で、蒔野のギターの演奏を聴いてからだった。土台、雄渾なチェロという楽器の響きを、今の彼女は、とても受け止めきれなかった。
 人間的な喜怒哀楽の彼方に屹立するバッハの楽曲。蒔野のまだ若い、才能とのハネムーンを心ゆくまで楽しんでいるような演奏は、彼女の心をすべて受け止めて、まったく揺るぎなかった。
 ただその音楽とだけ一つになって、すべてから解放されたかった。時間と旋律とが、一切の過不足なく結び合って流れてゆく美に融け入りたかった。
 洋子は、向かい合って、正面から見つめた彼の笑顔を思い出した。
 あの夜、ひとりでタクシーに乗らずに、朝まで一緒にいたいと言ったなら、どうなっていたのだろう? その大胆な想像に胸の鼓動が大きくなった。バグダッドへ来る前に、ただ美しいものに触れるだけでなく、彼に抱かれていたなら、自分の人生は、今どう変わっているのだろう?
 蒔野に会いたいと、洋子ははっきりと思った。そのくせに、安否を気づかう彼からの三通ものメールに、彼女は未だに返事を書いていなかった。
 ちゃんと書きたいと思っている間に、日一日と過ぎてゆく。
 とにかく、無事であることを知らせるべきだった。そして、感謝の気持ちを伝え、彼の音楽がどれほど大きな慰めとなっているかを知ってもらいたかった。
 しかし、自分がそれ以上の何かを書きたいと感じていることを、彼女は秘かに自覚していた。
「惚れてる」とフィリップは言った。その余計な一言は、彼女の気持ちを、既に後戻りの出来ない方向へと衝き動かしつつあった。
 胎児のようにからだを丸めて、改めてリチャードとの会話を思い出した。
 帰国して、自分は彼と結婚するのだろうかと考えた。子供を作る。彼との間に。──それが自分の新しい生の一歩となることは、疑い得ない。自分の年齢を考えた。あと半年で四十一歳になる。時間が限られているという事実が、心に重く伸しかかった。

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★「第三章:《ヴェニスに死す》症候群」で紹介した曲の視聴
03.無伴奏チェロ組曲第3番BWV1009 より I.プレリュード (J.S.バッハ/福田進一編)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/f03981fr

★タイアップCDの先行予約はこちらから(2016/10/19発売予定)
https://storeshirano.stores.jp/

特典:新聞連載の挿絵を描いてくださった石井正信氏による「しおり」。毎日新聞での挿絵は、単行本に生かされませんでしたが、CDのブックレットにはふんだんに盛り込まれています。平野と福田氏の対談もぜひご覧ください。

★『マチネの終わりに』単行本ご購入はこちらからhttps://www.amazon.co.jp/dp/4620108197

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