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『マチネの終わりに』第七章(30)

「これは僕の一家の家訓なんだよ。資本主義自体が、今や限界に達しつつある。この荒波の中では、何よりも自分自身がサヴァイヴすることが大事だ。この際だから言っておこう。僕の人生にとっては、僕自身と僕の家族が何よりも大事だ。僕だって、不遇な人たちへの憐憫はある。だけど、一体僕に何が出来る? 一個人の力なんて、ささやかなものだよ。君がイラクに行ったことで、現状が少しでも変わったかい?」

「何もしないのと同じじゃない。それがどんなにささやかだったとしても。あなたの仕事だってそう。」

「だけど、君がやらなかったらどうなった? 僕がやらなければ? 同じなんだよ。結局、誰かが同じことをするんだから!」

「わたしは、そう思わない。――あなたにとって仕事が大事なように、わたしにとっても、これまで自分がやってきたことが何だったのか、問われるの。その状況の中で、わたしなりに答えを求めてる。あなた自身の感情はどうなの? 開き直っていて平気?」

「君は矛盾してるよ。僕の心を心配してくれているのか? 僕がこの世界に対して責任を果たしていないってことを責めてたんじゃないのか?」

「どっちもよ。でも、責めてるんじゃない。教えてって言ってるの。」

「いいかい、僕は君が正しいことをしているから、イラクから帰ったあと、君のために尽くしたんじゃない。君を愛しているからこそだ。僕は君にもそうあってほしい。家族であるなら、たとえ間違いを犯したとしても、最後の最後まで味方であってほしい。」

「もちろん。でも、すべてを肯定するっていうことはまた違うでしょう?」

「君の中には、そういう冷たさがあるよ。ずっと感じてた。冷たい。そのせいで、僕はいつも不安だった。僕が人生で、本当に苦しんでいる時に、君は果たして僕の側に居続けてくれるだろうかって。――君は自立している。結構。君の生い立ちのせいかもしれない。誰と結婚しても、君はきっとそうだっただろう。僕には、百歩譲ってそれでもいい。だけどケンには、冷たい立派な母親であるよりも、どんな時でも大らかなあたたかい愛情で包み込むような母親であってほしい。」


第七章・彼方と傷/30=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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