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『マチネの終わりに』第六章(24)

 自分にだけは、何か奇跡的な症状の改善が見られて、東京に行くまでには、パリで一晩を過ごした時のような健康な、穏やかなからだに戻ってはいないだろうかと、彼女は祈るようにして毎日考えた。
 再会そのものを先延ばしにすべきだろうか? しかし、いつまで? 早くて一年先などという時間は、それこそ、この愛を壊してしまうだろう。
 彼女自身も、とても待てなかった。一日でも早く、彼に会いたかった。そして、彼の子供がほしいといつしか切実に願うようになっていた彼女は、四十歳という自分の年齢にも焦りを感じた。

 八月の第二週目の或る日、洋子は、レコード会社の是永から久しぶりにメールを受け取った。彼女とは、昨年十一月の蒔野のコンサートの後、フランスに戻る前にもう一度、二人だけで食事をして、一気に親しくなっていた。バグダッド赴任中も、何度か連絡は取っていたが、このところ、しばらく無音が続いていた。
 是永の用件は、夏休みに両親がパリに観光に行くので、どこかオススメのレストランを教えてほしいというものだった。しかし、どうもそちらはついでのようで、実は勤務先のレコード会社の買収に伴って、この夏一杯で退社し、外資のデザイン家電メーカーのPR部署に転職することになった、という報告が付されていた。
 洋子は、その簡素な記述に飽き足らない様子を察して、週末になると、彼女にスカイプで連絡してみた。
 是永は、洋子からの連絡を喜び、二時間近くも楽しく由無し事を語り、メールで触れた転職の顛末を語った。
 音楽業界の苦境というのは、洋子も凡そ理解していたが、具体的なCDのプレス数などを聞くと、想像以上の深刻さに驚いた。
「蒔野さんは、大丈夫なのかしら?」

 洋子は、蒔野との関係を、まだ彼女に話していなかったので、とぼけるように、しかし会話の流れ次第では、もう打ち明けてしまいたい気持ちで言った。


第六章・消失点/24=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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